いかづちのおか
雷を捕らえた話が残る小さな丘。東側は小墾田宮の推定地。
甘樫丘の北、飛鳥川の西岸にある小さな丘です。標高はわずかで、まわりの水田から10数メートル盛り上がっている程度。周囲を一周しても数分で終わります。
地名の「雷(いかづち)」がそのまま丘の名になっています。
名の由来として語られるのは、『日本霊異記』に載る話です。
雄略天皇が、少子部栖軽(ちいさこべのすがる)という側近に「雷を捕らえてこい」と命じます。栖軽は馬に乗って駆け出し、天皇の命であると叫んだところ、雷が落ちてきた。これを輿に載せて宮へ運んだ――という筋です。
のちに栖軽が死んだとき、雷の落ちた場所に墓を築き、碑を立てて「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した。その場所が雷の岡である、と伝えられます。
無茶な命令に真正面から応じる話で、笑い話として読まれてきたところもあります。『日本書紀』や『日本霊異記』には、この丘に雷神が降りるという説話が記されており、丘の名もそこに由来するとみられています。
『万葉集』にも、この丘を詠んだ歌があります。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)りせるかも」。柿本人麻呂の作です。
わが大君は神でいらっしゃるから、天の雲の雷の上に仮の宮をお建てになっている、という意味になります。この歌には「天皇、雷丘に出でます時」という題がついており、天皇は一般に天武天皇のこととされています。丘の名が「雷」であることを踏まえた言い回しです。
小さな丘が、当時は歌に詠まれる場所だったことになります。
丘の東側の水田で行われた発掘調査から、奈良時代から平安時代の建物跡が見つかっています。
注目されたのは、「小治田宮(おはりだのみや)」と墨で書かれた土器が出土したことです。平安時代のはじめ、淳和天皇がこのあたりに小治田宮を営んだことが記録にあり、それと結びつくものとみられています。
この発見によって、推古天皇が603年に遷った小墾田宮も、この一帯にあったのではないかという見方が強まりました。それまでは南の古宮遺跡を推定地とする説が有力でした。
ただし、墨書土器そのものは平安時代のものです。推古朝の宮が同じ場所だったと決まったわけではありません。
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「豊浦」下車、徒歩10分ほど。甘樫丘の北のふもとから、飛鳥川ぞいに北へ歩いた先です。
丘には登れますが、整備された展望台などはありません。木が茂っていて、上からの眺めもきくとは限りません。
東側の遺跡は埋め戻されており、いまは水田です。地表に見えるものはほとんどありません。丘のふもとの道ばたには、人麻呂の歌を刻んだ明日香村の説明板が立っています。
豊浦宮跡、古宮遺跡、甘樫丘とあわせて歩ける範囲です。
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