飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム飛鳥の宮は、なぜ動き続けたのか

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飛鳥の宮は、なぜ動き続けたのか

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豊浦、小墾田、岡本、板蓋、川原、浄御原。百年のあいだに宮は何度も移り、そして動かなくなりました。

天皇が代わると、宮も代わる

飛鳥時代の宮は、天皇の代ごとに営まれるのが通例でした。歴代遷宮と呼ばれます。

理由ははっきりしていません。死の穢れを避けたとする説、掘立柱の建物が長くもたなかったとする説、即位した天皇の縁の地に宮を置いたとする説などがあります。

いずれにせよ、宮は動くものでした。そして飛鳥では、その動きが数キロの範囲で繰り返されます。

592年 豊浦宮

「推古天皇 豊浦宮址」と刻まれた石標
「推古天皇 豊浦宮址」の石標。集落のなかに立つ

崇峻天皇が討たれたあと、推古天皇が即位した宮です。甘樫丘の西のふもと、飛鳥川ぞいの豊浦にありました。

この即位をもって飛鳥時代が始まったとされます。豊浦は蘇我氏にゆかりの深い土地でした。

宮であったのは11年です。宮が移ったあと、同じ場所には豊浦寺が建てられ、いまは向原寺が建っています。境内の発掘で、寺の基壇の下からさらに古い石敷と建物跡が出ており、これが宮にあたるとみられています。

603年 小墾田宮

推古天皇が移った次の宮です。冠位十二階が定められたのがこの年、十七条憲法が翌年。608年に隋の使者・裴世清を迎えたのもこの宮でした。

『日本書紀』には、南門を入ると朝庭(あさにわ)があり、その奥に大門、さらに奥に大殿があった、という趣旨の記述があります。役人が並ぶ広場と、天皇のいる建物を分ける構成です。のちの朝堂院につながる形が、ここで現れています。

場所は確定していません。古くは豊浦の古宮遺跡が推定地とされてきました。

古宮遺跡のあたりに広がる水田。水面に一本の木と雲が映る
古宮遺跡のあたり。かつて小墾田宮の推定地とされた

その後、北の雷丘東方遺跡から「小治田宮」と墨書された土器が出土し、そちらに求める見方が強まりました。ただしその土器は平安時代のもので、推古朝の宮と同じ場所かどうかは決まっていません。

630年 飛鳥岡本宮

舒明天皇の宮です。ここから宮の場所が、飛鳥川の東、いまの飛鳥宮跡の一角に移ります。

この宮は数年で焼失し、天皇は田中宮へ移りました。以後、厩坂宮、百済宮と移っています。

643年 飛鳥板蓋宮

飛鳥宮跡の石敷広場と、中央に復元された石組みの井戸跡
飛鳥宮跡。石敷きの広場と、中央の石組みの井戸跡

皇極天皇の宮です。名は屋根を板で葺いたことによります。それまでの宮が茅葺きだったなかで、板葺きは目新しい造りでした。

645年、この宮で乙巳の変が起きます。三韓の使者が調を進める儀式の場で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討ちました。

そして都は難波へ移ります。飛鳥が中心でなくなった、短い期間です。

655年 飛鳥川原宮、656年 後飛鳥岡本宮

斉明天皇が飛鳥へ戻ります。まず川原宮に入り、翌年、焼けた岡本宮の跡地に新しい宮を営みました。これを後飛鳥岡本宮といいます。

斉明朝は土木の時代でもありました。水落に水時計を置き、石神の一帯に客をもてなす施設を設け、酒船石遺跡の石の構造物もこの頃のものとみられています。『日本書紀』は、民が「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」と呼んだ大規模な水路工事も伝えています。

667年 近江大津宮

白村江の敗戦から4年後、天智天皇は近江へ都を移します。飛鳥を離れた理由は、防衛上の判断とみるのが一般的です。

しかし672年、壬申の乱が起こります。大海人皇子が吉野から東へ回り、近江朝廷を破りました。

672年 飛鳥浄御原宮

建物の柱の位置を示す白い標柱が並ぶ飛鳥宮跡。奥に飛鳥の集落と丘陵
建物の柱の位置を示す白い標柱。並びから部屋の区切りまで読み取れる

勝った大海人皇子は飛鳥へ戻り、天武天皇として即位します。宮はふたたび岡本の地に営まれました。飛鳥浄御原宮です。

この宮で、八色の姓が定められ、飛鳥浄御原令が施行され、庚寅年籍が作られます。律令国家の骨組みが、ここで組み上がりました。

宮の南東には「エビノコ郭」と呼ばれる区画があり、塀に囲まれた大型の建物跡が見つかっています。大極殿にあたるとみられ、天皇の正殿を独立した区画として設けた最初の例とされます。

同じ場所に、重なっている

ここまでの宮のうち、岡本宮・板蓋宮・後飛鳥岡本宮・浄御原宮は、すべて同じ一角に営まれました。

発掘調査で、時期の違う遺構が層になって重なっていることが分かっています。宮は動くものでありながら、この場所だけは繰り返し選ばれ続けました。

そのため史跡の名前も変わりました。1972年の指定時は「伝飛鳥板蓋宮跡」でしたが、複数の宮が重なることが明らかになり、2016年に「飛鳥宮跡」へ改められています。

694年 藤原京 ― 動かない宮へ

藤原宮跡いっぱいに広がる秋のコスモス畑。奥に大和三山のひとつ耳成山
藤原宮跡。碁盤の目の都が置かれた場所は、いま広い草地になっている

持統天皇が遷ったのが藤原京です。碁盤の目に道を通し、宮を中心に据えた、日本で最初の本格的な条坊制の都でした。

ここで歴代遷宮が終わります。持統・文武・元明の三代がこの宮を使いました。

動かなくなった理由は、律令にあります。令によって役所が定められ、官人が置かれ、文書と帳簿で政治が回るようになると、宮は天皇ひとりの住まいではなくなります。役所と倉と工房を抱えた都市を、代替わりのたびに建て直すことはできません。

皮肉なことに、その藤原京も16年で捨てられ、平城京へ移ります。そちらの事情は別のコラムに書きました。

歩いてたどる

宮の跡は、いずれも田や草地のなかにあります。建物はひとつも残っていません。

豊浦宮跡から北へ古宮遺跡と雷丘、東へ飛鳥川を渡って飛鳥宮跡、西へ川原寺跡、北西へ藤原宮跡。半日から一日で、百年分の宮をたどれます。

石標と案内板と、白い標柱。見えるものは多くありません。それでも、同じ数キロの範囲を宮が行ったり来たりし、最後に動かなくなったという流れは、歩くと体で分かります。

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