飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)
あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。
飛鳥時代の宮殿の跡です。発掘調査で、同じ場所に時期の違う宮が3層に重なって建てられていたことが分かりました。
飛鳥時代の宮は、天皇が代わるたびに新しく営まれるのが通例でした。それにもかかわらず、この一角だけは繰り返し選ばれ続けています。飛鳥の政治の中心が、数十年にわたってここにあったことになります。
いちばん下の層が、舒明天皇の飛鳥岡本宮(630年)とみられています。その上が皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)。
いちばん上の層は2つに分かれ、斉明天皇の後飛鳥岡本宮(656年)と、それを受け継いだ天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)です。694年に藤原京へ都が移るまで使われました。
板蓋宮という名は、屋根を板で葺いたことによります。それまでの宮が茅葺きだったなかで、板葺きは目新しい造りでした。
645年の乙巳の変(いっしのへん)は、この板蓋宮で起きたとされます。
三韓の使者が調(みつぎ)を進める儀式の場で、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討ちました。ここから大化の改新と呼ばれる一連の改革が始まり、都は難波へ移ります。
日本史の教科書に必ず載る場面が、この田のなかで起きたことになります。
いま地表に見えているのは、いちばん上の層の遺構です。石を敷き詰めた広場と、その中央に一辺約2.4メートルの石組みの井戸跡があります。
白い円柱が点々と並んでいるのは、建物の柱が立っていた位置を示す標柱です。並びをたどると、建物の大きさと向き、部屋の区切りまでそのまま読み取れます。
石敷きは、儀式の場として整えられたものと考えられています。
南東の一角には「エビノコ郭」と呼ばれる区画があります。塀で囲まれたなかに、東西約29メートル、南北約15メートルの大型建物の跡が見つかりました。
飛鳥浄御原宮の大極殿にあたるとみられています。天皇が政務や儀式を行う正殿が、独立した区画として設けられた最初の例です。のちの藤原京・平城京の大極殿へつながる形が、ここで生まれています。
1972年に国の史跡に指定されました。当初の名称は「伝飛鳥板蓋宮跡」です。板蓋宮だと「伝えられている」という意味でした。
その後の調査で複数の宮が重なることが明らかになり、板蓋宮だけを指す名前では実態に合わなくなります。そこで2016年、「飛鳥宮跡」へ改められました。
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「岡橋本」下車、徒歩約5分。見学は無料で、いつでも入れます。
遺構は田畑のなかに低く広がっているだけで、建物はありません。それでも、ここに宮があったと知って立つと、背後の丘陵と集落の眺めが違って見えます。石舞台古墳と飛鳥寺の中間にあたる位置です。
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