飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム女が国を率いた百年 ― 持統天皇と、同じころの東アジア

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女が国を率いた百年 ― 持統天皇と、同じころの東アジア

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690年、日本で持統天皇が即位した年に、唐では則天武后が皇帝になりました。その半世紀前には新羅にも女王が立っています。7世紀の東アジアで、なぜ女性の君主が続いたのか。

690年、二人が即位した

690年の正月、持統天皇が即位します。夫の天武天皇が亡くなってから4年、皇后のまま政務を執ってきた末のことでした。

同じ年の9月、唐で則天武后(そくてんぶこう)が皇帝の位に就きます。国号を唐から周へ改め、自ら聖神皇帝と称しました。中国の歴史で、女性が皇帝になったのはこの一度だけです。

天武・持統天皇陵の拝所。石段の上に黒い門扉と石の玉垣、右手に宮内庁の制札が立つ
天武・持統天皇陵。夫婦が同じ陵に葬られている

海を隔てた二つの国で、同じ年に女性が頂点に立った。偶然ではあります。ただ、この時代の東アジアを見わたすと、それが単発の出来事ではなかったことが分かります。

百年のあいだに、七人

並べてみます。

推古天皇(日本・592〜628年)、善徳女王(新羅・632〜647年)、皇極天皇(日本・642〜645年)、真徳女王(新羅・647〜654年)、斉明天皇(日本・655〜661年。皇極天皇が再び即位したもの)、則天武后(唐・690〜705年)、持統天皇(日本・690〜697年)。

百年あまりのあいだに、日本・新羅・唐の三国で女性の君主が続きました。そして最初は日本です。推古天皇の即位は592年。新羅の善徳女王より40年、則天武后より百年ちかく早い。

ただし、即位した事情は三国でまったく違います。同じ現象に見えて、中身が別なのです。

新羅 ― 血統が尽きたとき

新羅には骨品制(こっぴんせい)という厳格な身分制度がありました。王になれるのは聖骨(せいこつ)という最上位の血統だけです。

632年、真平王が亡くなったとき、聖骨の男子がいませんでした。そこで娘が即位します。善徳女王です。朝鮮半島で最初の女王でした。

続く真徳女王も聖骨の女性です。そして654年に真徳女王が亡くなると、聖骨は絶えました。以後の王は一段下の真骨(しんこつ)から出ることになります。

つまり新羅の女王は、制度が生んだ結果でした。血統の条件が厳しすぎて、男子が尽きたときに女性が立つほかなかった。

唐 ― 皇后から、皇帝へ

則天武后は、はじめ太宗の後宮に入り、次の高宗の皇后になりました。高宗が病がちになると政務を代行し、夫の死後は自分の息子たちを次々に立てては退けます。

そして690年、ついに自分が皇帝になりました。唐という王朝をいったん終わらせ、周という新しい王朝を建てたのです。

血統でも中継ぎでもありません。実力で位を取りにいった結果でした。705年、病床にあったところを迫られて退位し、その年に世を去ります。唐の王朝が戻りました。

日本 ― 中継ぎから、統治者へ

日本の女性天皇は、当初は中継ぎの性格が強いものでした。

推古天皇は、崇峻天皇が暗殺されたあとの混乱を収めるために立ちます。皇極天皇は、舒明天皇の没後に後継が定まらないなかで即位しました。どちらも、次の世代が決まるまで位を預かるという立場です。

建物の柱の位置を示す白い標柱が並ぶ飛鳥宮跡。奥に飛鳥の集落と丘陵
飛鳥宮跡。皇極天皇の板蓋宮も、この場所に重なっている

持統天皇は違いました。

持統天皇がしたこと

天武天皇が亡くなったのは686年。持統は即位せず、皇后のまま政務を執ります。称制(しょうせい)といいます。この形が4年続きました。

その間に、天武が進めていた仕事を引き継いでいます。689年には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行しました。国の運営を法で定める、その最初のまとまった形です。

690年に即位すると、694年には藤原京へ遷ります。碁盤の目に道を通し、宮を中心に据えた、日本で最初の本格的な条坊制の都でした。天武が構想し、持統が完成させたことになります。

藤原宮跡いっぱいに広がる秋のコスモス畑。奥に大和三山のひとつ耳成山
藤原宮跡。持統天皇が694年に遷った都の中心

697年、孫の文武天皇に位を譲り、自らは太上天皇(だじょうてんのう)になりました。生前に位を譲るのも、譲ったあとに太上天皇として残るのも、これが最初です。のちの日本で当たり前になる仕組みを、持統が作りました。

中継ぎとして預かるのではなく、自分で制度を動かし、次の形まで用意して降りた。日本の女性天皇のなかで、持統の位置はここにあります。

なぜ、この時代だったのか

はっきりした答えはありません。三国の事情がそれぞれ違う以上、ひとつの原因では説明できないからです。

ただ、共通する背景はあります。7世紀の東アジアは、どの国も国のしくみを作り替えている最中でした。唐が律令をもつ帝国として完成し、新羅が半島の統一へ向かい、日本が中央集権の体制を組み上げようとしていた時期です。

古い秩序が揺れているとき、血統や実力といった別の原理が働く余地が生まれます。女性が位に就いたのは、その隙間だったのかもしれません。

そして三人とも、ただ座っていたわけではありませんでした。則天武后は科挙を広げて人材の出どころを変え、善徳女王は瞻星台(せんせいだい)を築いたと伝えられ、持統は令を施行して都を遷しました。制度が動く時期に、制度を動かす側にいたことになります。

夫と同じ陵に

持統天皇は703年に亡くなりました。日本の天皇として初めて火葬にされ、骨壺に納められて、夫の天武天皇と同じ陵に葬られます。

野口王墓古墳がその陵です。八角形の墳丘をもつ、天皇だけに許された形。ひとつの墓に天皇が二人というのは、ほかに例がありません。

夫の事業を引き継ぎ、完成させ、同じ場所で眠る。明日香で持統天皇に会える場所は、いまもここです。

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