飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/天武・持統天皇陵
てんむ・じとうてんのうりょう
被葬者が記録から確かめられる、数少ない八角形の陵。
天武天皇と持統天皇を合わせ葬った陵です。古墳の名としては野口王墓古墳(のぐちのおうのはかこふん)と呼ばれます。
日本の天皇陵の多くは、宮内庁の治定と考古学の見解が食い違っています。そのなかでここは、被葬者がほぼ確実と考えられている数少ない例です。理由は、鎌倉時代に盗掘された際の記録が残っているからです。
墳丘は八角形墳で、向かい合う辺と辺の長さが約37メートル、高さ約7.7メートル。5段に築かれています。
八角形は、この時期の天皇陵にだけ用いられた形です。天智天皇陵、中尾山古墳、そして牽牛子塚古墳も同じ形をとります。円でも方形でもない八角に、天下八方を治める者という意味を込めたと考えられています。
文暦2年(1235年)、この陵は盗掘を受けました。そのとき現地を検分した記録が『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』として残っています。
記録によれば、石室の内部には朱塗りの漆棺が安置され、そのかたわらに銀の骨蔵器が置かれていた。棺が天武天皇、骨蔵器が持統天皇のものです。盗人は骨蔵器を奪い、中の遺骨を撒き捨てたと記されています。
古墳の内部が文字で記録されている例は他にほとんどありません。この一冊があるために、ここが天武・持統陵であることが動かないのです。
持統天皇は、日本で最初に火葬された天皇とされます。大宝2年(702年)に没し、翌年に火葬されて夫である天武天皇の陵に葬られました。
天武天皇は686年の没後、2年余りにわたって殯(もがり)が営まれ、689年に葬られています。夫婦の埋葬に14年の隔たりがあり、そのあいだ持統天皇は都を飛鳥から藤原京へ移しました。
宮内庁が管理しており、墳丘に立ち入ることはできません。鳥居の前から拝礼する形になります。
近鉄飛鳥駅から徒歩約10分。鬼の俎・鬼の雪隠がすぐ北にあり、欽明天皇陵と猿石へも歩いてつながります。
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