飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/墓を暴いた記録が、その墓を守った ― 天武・持統天皇陵
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誰の墓かがほぼ確実とされる天皇陵は、ごくわずかです。この陵がそうであるのは、1235年の盗掘で作られた調書が残っていたからでした。
飛鳥を歩くと、宮内庁の制札を何度も見かけます。ところが、そこに書かれた被葬者と、考古学が示す被葬者は、たびたび食い違います。
牽牛子塚古墳は斉明天皇の陵として有力視されていますが、治定は高取町の別の古墳です。中尾山古墳は文武天皇の陵とみられていますが、治定は栗原塚穴古墳にあります。
そのなかで、天武・持統天皇陵だけは被葬者がほぼ確実とされています。古墳の名では野口王墓(のぐちのおうぼ)といいます。
確かめられた理由が、少し変わっています。盗掘されたからです。
文暦2年(1235年)の春、この陵に賊が入りました。3月20日と21日の両夜にわたる犯行で、藤原定家の日記『明月記』にその記事があります。
当時の警察にあたる検非違使(けびいし)が動き、盗人を捕らえて取り調べました。あわせて現場も検分されています。
このときの記録が『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』です。供述と現場検証をまとめたもので、いわば事件の調書にあたります。
記録によれば、石室の内部は磨かれた石で覆われ、瑪瑙(めのう)のようであったといいます。
中には朱塗りの漆の棺が安置され、そのかたわらに銀の骨蔵器が置かれていました。棺が天武天皇、骨蔵器が持統天皇のものです。
持統天皇は、日本で最初に火葬された天皇とされます。だから骨を納める器なのです。夫は棺のまま、妻は骨壺で、同じ石室に並んでいた。
盗人は銀の骨蔵器を奪い、中の遺骨を撒き捨てたと記されています。
古墳の内部が、その時代の言葉で書き留められた例はほとんどありません。この一冊が、のちに決定的な意味を持つことになります。
時代が下ると、どの古墳が誰の陵なのかは分からなくなっていきました。記録が失われ、地元の呼び名だけが残ります。
江戸時代、天武・持統天皇の合葬陵とされていたのは、この野口王墓ではありませんでした。橿原市の五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)がそれにあてられていました。
そして文久2年(1862年)、幕府による山陵の修理が行われます。文久の修陵と呼ばれるものです。このとき野口王墓は、文武天皇の陵として修理されました。
つまり幕末の時点で、この陵には別の天皇の名が付けられていたことになります。
転機は明治になって訪れます。
明治13年(1880年)、京都・栂尾(とがのお)の高山寺で、『阿不幾乃山陵記』の写本が見つかりました。645年前の調書が、寺の蔵から出てきたことになります。
書かれていた石室の構造、朱の漆棺、銀の骨蔵器。それらが野口王墓の状況と合致しました。
翌明治14年(1881年)2月1日、野口王墓はあらためて天武・持統天皇の合葬陵に治定されます。文武天皇陵という名が外れ、本来の被葬者に戻りました。
整理すると、こういう順序になります。
墓が暴かれ、遺骨が撒かれた。その捜査記録が寺に写され、六百年以上眠っていた。それが見つかったことで、この陵は被葬者の分かる数少ない陵になった。
盗掘という、陵にとって最悪の出来事が、結果として被葬者を確定させました。もし1235年の事件がなければ、この墳丘はいまも文武天皇陵と呼ばれていたかもしれません。
話はもう一段ややこしくなります。
江戸時代に天武・持統陵とされていた五条野丸山古墳は、いま、欽明天皇の陵ではないかという説の有力な候補になっています。
一方、宮内庁が欽明天皇陵として管理しているのは、明日香村平田の梅山古墳です。こちらにも「欽明天皇 檜隈坂合陵」の制札が立っています。
取り違えが一つ正されると、隣で別の取り違えが見えてくる。陵の治定とは、そういう連なりのなかにあります。
野口王墓は八角形墳です。向かい合う辺と辺の長さが約37メートル、高さ約7.7メートル。5段に築かれています。
八角形は、この時期の天皇陵にだけ用いられた形です。もっとも、いまは木々に覆われていて、外から形を確かめることはできません。
宮内庁が管理しており、墳丘には立ち入れません。鳥居の前から拝礼する形になります。
近鉄飛鳥駅から徒歩約10分。すぐ北に鬼の俎・鬼の雪隠があり、そこから欽明天皇陵と猿石へも歩いてつながります。取り違えられた側の梅山古墳まで、10分ほどの距離です。
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被葬者が記録から確かめられる、数少ない八角形の陵。

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明日香村では数少ない大型の前方後円墳。

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文武天皇の火葬墓とみられる小さな八角形墳。
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