飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム八角形の陵 ― 天皇だけに許された形

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八角形の陵 ― 天皇だけに許された形

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円でも方形でもない、八つの辺をもつ墳丘。七世紀の半ばから八世紀の初めまでの六十年ほど、この形は天皇の陵にだけ使われました。

前方後円墳が終わったあと

三世紀から六世紀にかけて、倭の王たちは前方後円墳に葬られました。鍵穴の形をした巨大な墳丘は、そこに葬られる者の力をそのまま大きさで示すものでした。

六世紀の終わりごろ、この形が造られなくなります。代わって大王の墓は方墳になりました。用明天皇陵とされる春日向山古墳、推古天皇陵とされる山田高塚古墳は、いずれも方墳です。飛鳥の石舞台古墳も、盛土を失っていますが方墳でした。

そして七世紀の半ば、突然、八角形が現れます。

最初の八角形墳

最初の例とされるのは、桜井市忍阪(おっさか)にある段ノ塚古墳(だんのつかこふん)です。舒明天皇の陵とされ、この治定については考古学の側からも異論がほとんど出ていません。

上段が八角形で、対辺長は約42メートル。その前面に、三段の方形の壇が張り出しています。舒明天皇が没したのは641年、葬られたのは643年です。

以後、この形は続きます。天智天皇陵とされる御廟野古墳(京都市山科区)、天武天皇と持統天皇を合わせ葬った野口王墓古墳、そして文武天皇の陵とみられる中尾山古墳。斉明天皇の陵と考えられている牽牛子塚古墳も八角形です。

数にすれば五つか六つ。六十年ほどのあいだに造られ、それきり途絶えます。

なぜ八角なのか

この形が何を意味していたのか、はっきりした文献はありません。有力とされるのは、天下八方を治める者の墓という説です。

八という数は、中国の思想で世界の全方位を指します。東西南北に、その中間の四方を加えて八方。八方を統べる者、すなわち天下を治める者。その考え方を墳丘の形に写したのではないか、というものです。

ただし、この読み方には弱いところもあります。中国にも朝鮮半島にも、八角形の墳墓の先例が見つかっていないのです。思想は大陸から来たとしても、それを墳丘の形にするという発想は、この国で生まれたことになります。

仏教の八角堂を手がかりにする説もあります。ただし法隆寺の夢殿をはじめ、日本の八角堂が建つのは八世紀に入ってからで、順序が合いません。

形が身分を示す

重要なのは、八角形がほかの墓に使われていないことです。

この時期の墳墓は、形によって序列がついていました。頂点に八角形。そのすぐ下に六角形。明日香村真弓のマルコ山古墳が六角形墳で、皇子クラスの墓ではないかとみられています。さらに下に方墳、円墳と続きます。

墳丘の大きさで力を示す時代が終わり、形が身分を示す時代になった。中尾山古墳の対辺長は約19メートルで、天武・持統陵の半分ほどしかありません。それでも八角形である以上、天皇の陵として読めるのです。

例外らしきもの

高取町にある束明神古墳(つかみょうじんこふん)は、多角形の墳丘をもち、八角形とみる説があります。被葬者は草壁皇子(くさかべのみこ)ではないかと考えられています。

草壁皇子は天武天皇と持統天皇の子で、次の天皇となるはずの人でした。689年に即位しないまま没しています。天皇ではないが、天皇に準ずる者として葬られた――そう読めば、八角形の原則からは外れません。

この古墳が確かに八角形なのかどうかは、まだ議論があります。ただ、被葬者の立場と墳形の議論がぴたりと重なるところが、この時代らしい問題です。

六十年で終わる

八角形墳は、中尾山古墳を最後に造られなくなります。文武天皇が没したのは707年でした。

理由は、葬り方そのものが変わったからです。持統天皇が日本で最初に火葬された天皇となり、文武天皇もそれに続きました。骨を納める石槨は小さくてよく、大きな墳丘を築く必要がなくなります。

加えて、律令が整い、仏教が国の宗教になっていきます。死者を弔う場は墓から寺へ移りました。奈良時代の天皇たちは、もう巨大な墳丘を造りません。

八角形は、古墳という葬り方の最後の形でした。

治定と考古学

ややこしいのは、宮内庁が陵として管理している場所と、考古学が示す場所が食い違っていることです。

牽牛子塚古墳は斉明天皇陵として有力視されていますが、宮内庁の治定は高取町の車木ケンノウ古墳です。中尾山古墳は文武天皇陵とみられていますが、治定は栗原塚穴古墳にあります。どちらも治定は動いていません。

陵として管理されている場所は発掘ができません。そのため、調査が進むのは治定されていない古墳のほうで、そこから有力な説が出てくる。この構図が、食い違いを固定させています。

飛鳥で見る

八角形という形を目で確かめられるのは、牽牛子塚古墳です。2022年に復元整備が終わり、凝灰岩の切石で覆われた斜面が復元されました。八つの面が角をもって折れていくのが、外から見て分かります。

薄く雪の積もった牽牛子塚古墳。復元された八角形の墳丘と、奥に広がる明日香の集落と山並み
牽牛子塚古墳。八つの面が角をもって折れていくのが、外から分かる

天武・持統天皇陵は宮内庁が管理しており、鳥居の前から拝礼する形になります。墳丘は木に覆われていて、形は見えません。中尾山古墳も保存のため覆われています。

天武・持統天皇陵の拝所。石段の上に黒い門扉と石の玉垣、右手に宮内庁の制札が立つ
天武・持統天皇陵の拝所。墳丘は木に覆われ、八角形は外からは見えない
「史跡 中尾山古墳」の石碑と説明板。奥に墳丘が見える
中尾山古墳。墳丘は保存のため覆われており、形は外からは見えない

近鉄飛鳥駅の近くにある岩屋山古墳は方墳とされますが、上段が八角形だったという見方も出ています。ここは石室に入ることができます。もしこの説が正しければ、内部に入れる八角形墳ということになります。

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