飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/諸説あり

殯の庭で「生きている王に仕えよ」と言い放ち、先の天皇の皇后に迫り、最後は蘇我馬子の兵に討たれた。『日本書紀』で評判の悪い穴穂部皇子は、欽明天皇の子で馬子の甥でもある、れっきとした皇位の候補でした。彼はなぜ消されたのか、記録から考えます。

643年、聖徳太子の子・山背大兄王は、蘇我入鹿の兵に追われて斑鳩で一族とともに命を絶ちました。母は蘇我馬子の娘。蘇我の血を引く皇子が、なぜ蘇我に滅ぼされたのか。皇位、上宮王家の力、入鹿以外の関与、そして『日本書紀』の描き方から考えます。

『万葉集』を代表する歌人でありながら、『日本書紀』にも『続日本紀』にも名前が出てこない。柿本人麻呂について確かなのは、残された歌と題詞だけです。雷丘の歌から石見での死、そして一人の歌人ではなかったという説まで、分かっていることと分からないことを分けてたどります。

蘇我馬子は大臣、物部守屋は大連。どちらも朝廷の最上位ですが、「臣」と「連」はもともと成り立ちの違う呼び名でした。土地の名を名乗る豪族と、仕事の名を名乗る家。その違いから、飛鳥の政治を読み解きます。

587年、蘇我馬子の軍に攻められ、物部守屋は河内の本拠で討たれました。仏を捨てた人、として知られる人物です。けれども彼について残る記録は、すべて勝った側が書いたものです。その記録を、守屋の側から読み直します。

800トンの巨石に穿たれた二つの穴、円と溝が刻まれた石、顔を持つ亀、表と裏に顔のある石像。飛鳥には、何のために造られたのか分からない石が、田や丘のあちこちに置かれたままになっています。謎の石をめぐり、解けたもの、解けかけたもの、まだ何も分からないものに分けて紹介します。

「飛鳥」は奈良の明日香だけではありません。大阪府の羽曳野市や太子町のあたりにも飛鳥があり、古くは「近つ飛鳥」と呼ばれました。対する大和の飛鳥が「遠つ飛鳥」。近い・遠いは、どこから見た言い方なのでしょうか。

聖徳太子の事績には、ほとんどいつも蘇我馬子の名が並びます。本当に国を動かしていたのは馬子で、太子の姿は馬子の事績を移したものではないか――。そんな説の根拠と、それに対する反論を紹介します。