飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/諸説あり

藤原京は中国の古典『周礼』が説くとおり、宮を都の真ん中に置きました。ところが手本にしたはずの長安は、そうなっていません。なぜ本家が経典を外したのかを追うと、隋唐という王朝の素性が見えてきます。

三通りの雨乞いが順に試され、最後に天皇が飛鳥川の上流で祈ると、五日間降り続きました。『日本書紀』がこの順番を丁寧に書き分けたことには、意味があります。

誰の墓かがほぼ確実とされる天皇陵は、ごくわずかです。この陵がそうであるのは、1235年の盗掘で作られた調書が残っていたからでした。

豊浦、小墾田、岡本、板蓋、川原、浄御原。百年のあいだに宮は何度も移り、そして動かなくなりました。

近鉄飛鳥駅の周り、平田・野口・越。数キロ四方に、天皇の陵とされる古墳がいくつも並んでいます。これほど密集した場所は、ほかにありません。

遺跡と時代は「飛鳥」、村の名前は「明日香」。読みは同じなのに字が違うのはなぜか。そもそも「アスカ」とは何なのか。

藤原鎌足の長男は、十一歳で唐へ渡りました。帰ってきたのは二十三歳の秋。そしてその年の暮れに没しています。毒殺だったと書き残したのは、身内でした。

円でも方形でもない、八つの辺をもつ墳丘。七世紀の半ばから八世紀の初めまでの六十年ほど、この形は天皇の陵にだけ使われました。