飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/万葉集

『万葉集』を代表する歌人でありながら、『日本書紀』にも『続日本紀』にも名前が出てこない。柿本人麻呂について確かなのは、残された歌と題詞だけです。雷丘の歌から石見での死、そして一人の歌人ではなかったという説まで、分かっていることと分からないことを分けてたどります。

「春過ぎて夏来るらし」で始まる、持統天皇の香具山の歌。初夏の景色を詠んだ一首として親しまれていますが、そこに持統天皇自身の野心が出ているという読み方もあります。

大海人皇子とのあいだに娘をもうけ、のちに天智天皇のもとへ移ったとされる額田王。蒲生野で二人が詠み交わした歌には、まだ大海人を思っていた心が出ているのではないか。そう読む説を紹介します。

飛鳥を歩くと、あちこちで万葉集の歌に出会います。歌を読む前に知っておくと楽しくなる、歌の分け方と形、反歌や贈答の歌の違いをまとめました。

679年、天武天皇は吉野で六人の皇子に、争わないことを誓わせました。守られなかったことはよく知られています。ただ、一人ずつその後を追っていくと、殺し合いだけでは終わっていないことが見えてきます。

飛鳥のいちばん奥から山に入り、尾根をひとつ越えると吉野です。この道を、大海人皇子は追われるようにして越えました。同じ道を、持統天皇は在位のあいだに三十回以上も往復しています。

壬申の乱で軍を預かったのは、十九歳の長男でした。母の身分が低く、位からは遠いとされた人です。ただ、その死の扱いは、皇子のものにしては大きすぎました。

三輪山のふもとの纒向(まきむく)から、磐余(いわれ)を経て飛鳥へ。王権の場所は、南へ十キロほどのあいだを移っていきました。