飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/遣隋使・遣唐使

冠位十二階、憲法十七条、遣隋使。教科書でおなじみの聖徳太子は、明日香の橘寺で生まれたと伝えられます。日本書紀が描く太子の歩みと、「聖徳太子」という名前の成り立ちをたどります。

聖徳太子の事績には、ほとんどいつも蘇我馬子の名が並びます。本当に国を動かしていたのは馬子で、太子の姿は馬子の事績を移したものではないか――。そんな説の根拠と、それに対する反論を紹介します。

藤原京は中国の古典『周礼』が説くとおり、宮を都の真ん中に置きました。ところが手本にしたはずの長安は、そうなっていません。なぜ本家が経典を外したのかを追うと、隋唐という王朝の素性が見えてきます。

日本で初めての本格的な都城が、わずか十六年で放棄されました。水はけの悪さ、宮の置き方、そして三十年ぶりに派遣された遣唐使が持ち帰ったもの。いくつかの説が語られています。

藤原鎌足の長男は、十一歳で唐へ渡りました。帰ってきたのは二十三歳の秋。そしてその年の暮れに没しています。毒殺だったと書き残したのは、身内でした。

隋へ、唐へ。数十年を海の向こうで過ごし、帰ってきた人たちがいます。彼らが持ち帰ったのは、物ではなく、国の仕組みそのものでした。

600年、隋へ送った最初の使いは、皇帝から道理に合わないと言われて帰ってきました。そこから百年で、この国は律令をもつ国になります。

遣隋使として三十年あまりを大陸で過ごした学者のもとに、中大兄皇子と中臣鎌足が通いました。稲渕の坂道に、その塾があったと伝わります。