飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/南淵請安 ― 大化改新を用意した塾
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遣隋使として三十年あまりを大陸で過ごした学者のもとに、中大兄皇子と中臣鎌足が通いました。稲渕の坂道に、その塾があったと伝わります。
608年(推古16年)、小野妹子に従って隋へ渡った留学生のなかに、南淵請安(みなぶちのしょうあん)がいました。『日本書紀』は「南淵漢人請安(みなぶちのあやひと しょうあん)」と記します。渡来系の一族の出とされ、生没年は分かっていません。
請安が帰ってきたのは640年(舒明12年)。渡ってから三十年あまりが過ぎていました。
この三十年は、大陸にとって激動の期間です。請安が渡った隋は、その十年後に倒れます。代わって唐が興り、律令にもとづく統治のかたちを整えていきました。請安は、一つの王朝が倒れ、次の王朝が国の仕組みを組み上げていく過程を、はじめから終わりまで見ていたことになります。
そのころの日本は、蘇我氏が力を握っていました。国の仕組みは、豪族がそれぞれに土地と民を持ち、その力の均衡のうえに成り立っています。天皇を中心に、戸籍をつくり、土地と人を国として把握し、法にもとづいて治める――唐がすでに形にしていたその仕組みは、まだどこにもありませんでした。
帰国した請安が、大陸で何を見てきたかを語れる数少ない人物であったことは確かです。
『日本書紀』には、中大兄皇子と中臣鎌足がそろって請安のもとに「周孔の教え」を学びに通ったと記されています。周孔とは周公旦と孔子、つまり儒教のことです。
そして、その行き帰りの道すがら、二人は蘇我氏を倒す計画を練った――書紀はそう書いています。
645年、乙巳の変で蘇我入鹿が討たれます。続いて始まる政治の作り直しが、大化改新と呼ばれるものです。戸籍をつくり、土地と人を国が把握し、地方に役人を置く。請安が大陸で見てきた国のかたちに、日本が近づいていきます。
ただし書紀が伝えるのは、あくまで「儒教を学びに通った」ということだけです。請安が律令の中身をどこまで具体的に教えたのかは、記録に残っていません。分かっているのは、通った二人がその後に何をしたか、のほうです。
この構図は、千二百年後の長州によく似ています。
吉田松陰の松下村塾に通った若者たちが、明治維新を動かしました。松陰自身は維新を見ることなく処刑されます。動いたのは塾生のほうでした。
請安の塾に通った二人も、そこで学んだあとに国を作り直しました。請安がその後どうなったかは分かっていません。乙巳の変を見たのかどうかさえ、記録がないのです。
教えた人の名は残り、その人が何をしたかは残らない。代わりに、通った者たちの行いが残る。師と呼ばれる人の記録の残り方は、しばしばこういう形をとります。
もっとも、違いもあります。松陰は自ら動き、書き、多くの言葉を残しました。請安について残っているのは、書紀のわずかな記述だけです。似ているのは、塾から国が変わったという一点です。
稲渕の集落を上がる道の角に、「南淵先生墓」と刻まれた石碑が立っています。うしろの小さな塚が、請安の墓と伝えられてきた場所です。塾があったのも、このあたりだと言われます。
少し下れば、飛鳥川に飛び石が残っています。飛鳥の宮のあたりから稲渕へ上がってくるには、この川を渡らなければなりません。中大兄皇子と中臣鎌足が通った道も、どこかで川を渡っていたはずです。
石を跳んで渡り、坂を上がる。その途中で、二人は話をしていた。書紀の一行を、道の上で思い浮かべられる場所です。
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みなぶちしょうあんのはか
遣隋使から帰った学者の墓と伝わる塚。中大兄皇子と中臣鎌足が通った。

あすかがわのとびいし
橋ではなく、川床に据えた石を跳んで渡る。万葉の歌に重ねて語られる渡り。

あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。
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