飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム海を渡って帰ってきた人たち ― 留学生が持ち帰ったもの

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海を渡って帰ってきた人たち ― 留学生が持ち帰ったもの

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隋へ、唐へ。数十年を海の向こうで過ごし、帰ってきた人たちがいます。彼らが持ち帰ったのは、物ではなく、国の仕組みそのものでした。

人を送るということ

607年、小野妹子が隋へ渡ります。「日出づる処の天子」で知られる国書を持っていった使いです。

ただし、より大きな意味を持ったのは翌608年でした。この年、妹子が再び海を渡ったとき、八人の留学生・学問僧が同行しています。使いは行って帰るだけですが、留学生は現地に残る。何年も、ときには何十年も。

『日本書紀』は八人の名を挙げています。そのなかに、のちの飛鳥を動かすことになる三人がいました。

三十年後に帰ってきた三人

旻(みん)、高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)。

彼らが渡った先は隋でしたが、隋は618年に滅びます。留学の途中で国が変わり、唐になりました。彼らは新しい王朝が制度を組み直していく過程を、そのまま見たことになります。

旻は632年に帰国します。高向玄理と南淵請安の帰国は640年。渡ってから三十二年が経っていました。

帰国した年に、何が起きたか

南淵請安は、飛鳥で私塾を開きます。『日本書紀』は、中大兄皇子と中臣鎌足がここへ通い、行き帰りの道で語り合ったと記します。645年の乙巳の変は、その五年後です。

「南淵先生墓」と刻まれた石碑。集落の道の角に、石を積んだ小さな塚とともに立つ
「南淵先生墓」と刻まれた石碑。塾のあった場所は分かっていない

旻も塾を開いており、蘇我入鹿が学んでいたと伝えられます。同じ学問を、討つ側と討たれる側が学んでいたことになります。

乙巳の変のあと、旻と高向玄理は国博士(くにのはかせ)に任じられました。新しい政治の設計を任される立場です。唐で何十年も制度を見てきた二人が、国の作り替えの中心に置かれた。

高向玄理はその後、654年に今度は使いとして唐へ渡り、長安で没しています。二度渡り、二度目は帰りませんでした。

玄奘に学んだ僧

630年から、行き先は唐になります。遣唐使のはじまりです。

653年の遣唐使には、道昭(どうしょう)が加わっていました。長安で玄奘三蔵に師事します。『西遊記』の三蔵法師のもとになった、あの玄奘です。

帰国した道昭は、飛鳥寺の東南の隅に禅院を建てて住み、法相宗を伝えました。同時に、諸国をまわって井戸を掘り、橋を架けたとも伝えられます。宇治橋を架けたのは道昭だという話も残っています。

飛鳥寺の山門。手前に「飛鳥大佛」と刻まれた石標が立つ
飛鳥寺。道昭はこの寺の東南の隅に禅院を建てて住んだ

700年に没し、遺言によって粟原(おおばら)で火葬されました。『続日本紀』は「天下の火葬、此より始まれり」と記しています。日本の火葬は、この人から始まったことになります。

同じ653年の船には、中臣鎌足の長男・定恵(じょうえ)も乗っていました。十一歳。十二年後に帰国し、その年のうちに没しています。

「日本」という名を伝えた使い

702年、粟田真人(あわたのまひと)が執節使として唐へ渡ります。

このとき唐は則天武后の治世でした。真人は武后に会っています。中国側の史書は、この使いの立ち居振る舞いを好意的に書き留めました。

そして、この使いが「日本」という国号を唐に伝えたとされます。それまで中国側は倭と呼んでいました。名を改めたことを正式に告げた使いだったわけです。

帰国後、真人は中納言にまで進みます。制度を学ぶだけでなく、国の名を認めさせて帰ってきた使いでした。

この702年の一行には、山上憶良(やまのうえのおくら)も下級の役人として加わっていました。のちに筑前守となり、『万葉集』に貧窮問答歌を残す歌人です。

帰らなかった人

全員が帰れたわけではありません。

717年に渡った阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、唐で科挙に合格し、玄宗に仕えました。李白や王維と交わり、唐の官人として生きます。753年、ようやく帰国の船に乗りますが暴風で流され、安南(いまのベトナム)に漂着しました。

長安に戻った仲麻呂は、そのまま唐で生涯を終えます。770年、七十二歳。日本の土を踏むことはありませんでした。

「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」。帰国の船を待つあいだに詠んだと伝えられる歌です。

そのあと

同じ717年の船で渡り、無事に帰ってきた人もいます。吉備真備(きびのまきび)と玄昉(げんぼう)です。

真備は十八年を唐で過ごし、暦や兵法、楽器、測量の器具を持ち帰りました。のちに右大臣にまで昇ります。学問で渡った者が大臣になった例は、ほかにほとんどありません。

玄昉は経典五千余巻を持ち帰り、僧正となって政治の中枢に近づきますが、やがて大宰府へ左遷され、そこで没しました。

遣唐使そのものは、894年に菅原道真の建議で停止されます。三百年近く続いた往来が終わりました。

持ち帰ったもの

こうして並べてみると、彼らが持ち帰ったのは物ではないことが分かります。

南淵請安と旻が持ち帰ったのは、国をどう作るかという考え方でした。道昭が持ち帰ったのは仏教の学問と、葬り方そのものでした。粟田真人が持ち帰ったのは、国の名を認めさせたという事実です。

何十年も現地で暮らし、言葉を覚え、制度の内側まで理解して帰ってくる。船は何度も沈み、帰れなかった者もいます。それでも送り続けたのは、人が持ち帰るものが最も大きかったからでしょう。

飛鳥の宮と寺、そこで作られた制度の背景には、海を渡って帰ってきた人たちがいます。

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