飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/飛鳥寺・蘇我入鹿首塚
あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。
蘇我馬子の発願で建てられた、日本で最初の本格的な仏教寺院です。崇峻天皇元年(588年)に造営が始まり、推古天皇4年(596年)に伽藍が整いました。
当時は法興寺、のちに元興寺とも呼ばれ、現在の正式な寺号は鳥形山 安居院(とりがたやま あんごいん)といいます。真言宗豊山派の寺です。
それまでの日本に、瓦を葺き、礎石の上に柱を立てる建物はありませんでした。百済から寺工・瓦博士・露盤博士が招かれ、技術ごと持ち込まれた建築です。飛鳥寺は、日本の建築が石と瓦を覚えた場所でもあります。
本尊の銅造釈迦如来坐像が「飛鳥大仏」です。推古天皇17年(609年)、鞍作止利(くらつくりのとり)の作と伝えられ、現存する日本最古の仏像とされます。像高はおよそ2.75メートル。国の重要文化財です。
面長の輪郭、切れ長で杏の実のような目、口もとにわずかに浮かぶ笑み。左右の目の高さがわずかに違い、正面から見るのと斜めから見るのとで表情が変わります。のちの時代の整った仏像とは、明らかに顔つきが違います。
この像は度重なる火災で大きく傷みました。とくに1196年の落雷による火災では堂宇もろとも被災し、その後の補修で当初の銅は多くが失われています。
それでも、顔の上半分や右手の指の一部などに造立当初の姿が残るとされます。そして何より、この仏は1400年のあいだ一度も動かされることなく、同じ台座の上に座り続けていると考えられています。
寺が焼け、堂が失われ、都が移っても、仏だけがその場に残った。日本の仏像でこれほど長く同じ場所にいる例は他にありません。
創建時の伽藍は、塔を中心に3つの金堂が東・西・北から囲む「一塔三金堂」という配置でした。国内では他に例がなく、高句麗の寺院に近い形とされます。
現在の飛鳥大仏は、この中金堂があった位置に安置されています。境内は国の史跡に指定され、塔跡には心礎(塔の中心柱を受ける石)が残っています。
718年、都が平城京へ移るのにあわせて寺も移されました。奈良の元興寺がそれです。
ただし飛鳥の地にも寺は残り、本元興寺と呼ばれました。1196年の火災以降は衰え、いまの本堂は文政9年(1826年)の再建です。かつての伽藍からすると、ごく小さな堂が一棟建つだけになっています。
西門を出た田のなかに、五輪塔がぽつんと立っています。645年の乙巳の変で討たれた蘇我入鹿の首塚と伝えられるものです。
飛鳥寺を建てた蘇我氏の栄華と、その終わりとが、数十メートルを隔てて向かい合っている。ここは飛鳥でもっとも劇的な景色のひとつです。
塔そのものは鎌倉時代以降のものとみられ、伝承がいつ生まれたのかは分かっていません。
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「飛鳥大仏前」下車すぐ。拝観は有料で、堂内では写真撮影ができます。
飛鳥坐神社へは徒歩5分、飛鳥宮跡へは10分ほど。首塚の向こうには甘樫丘が見えます。
公開日 /更新日
READ MORE
日本という国のはじまり ― 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の19件2026年7月26日に登録されました。選ばれたのは宮殿と寺と…
氏の寺と、国の寺 ― 飛鳥に建った寺を読み分ける飛鳥寺、豊浦寺、山田寺、川原寺、大官大寺、本薬師寺。誰が、何…
飛鳥と明日香 ― 同じ土地の、二つの書き方遺跡と時代は「飛鳥」、村の名前は「明日香」。読みは同じなのに…
古墳はなぜ造られなくなったのか三百年以上にわたって大きくなり続けた墳丘が、七世紀のうちに小…
海を渡って帰ってきた人たち ― 留学生が持ち帰ったもの隋へ、唐へ。数十年を海の向こうで過ごし、帰ってきた人たちがい…
定恵 ― 十二年の留学から帰り、その年に死んだ藤原鎌足の長男は、十一歳で唐へ渡りました。帰ってきたのは二十…
難波の堀江はどこか ― 捨てられた仏が善光寺へ海に近い大阪の水路か、それとも飛鳥の小さな池か。『日本書紀』…
南淵請安 ― 大化改新を用意した塾遣隋使として三十年あまりを大陸で過ごした学者のもとに、中大兄…
欽明天皇という結節点 ― いまの皇室へつながる血筋父・継体天皇の即位から、子どもたちが相次いで皇位を継ぐまで…