飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/古墳はなぜ造られなくなったのか
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三百年以上にわたって大きくなり続けた墳丘が、七世紀のうちに小さくなり、八世紀の初めに途絶えます。理由はひとつではありません。
三世紀の終わりから、倭の各地で前方後円墳が造られます。大阪府堺市の大仙陵古墳は全長486メートル。土を運び、盛り、葺石を並べ、埴輪を立てる。何年もの人手がかかります。
なぜそこまでするのか。墓が、その人の力を示す装置だったからです。誰がどれだけの人を動かせるか、誰が誰より上か。それを目に見える形で示すものが墳丘でした。
六世紀の終わりごろから、この形が造られなくなります。そして七世紀を通じて、墓はどんどん小さくなっていきます。
明日香村に残る前方後円墳は、欽明天皇陵とされる梅山古墳の一基だけです。全長およそ140メートル。この形で大きさを競っていた時代の、この土地での最後にあたります。
飛鳥の古墳を古い順に見ると、その流れがそのまま分かります。
石舞台古墳は七世紀の前半です。墳丘は失われていますが、石室に使われた石の総重量は2300トンとみられています。天井石だけで77トン。巨石を運んで積むという、力の示し方がまだ残っています。
七世紀の半ばになると、岩屋山古墳のように石を切って面を整え、隙間なく積む造りに変わります。石は小さくなり、代わりに加工の精度が上がる。
七世紀の後半、牽牛子塚古墳では石室が一つの石をくり抜いたものになります。対辺長は約22メートル。そして八世紀の初め、中尾山古墳の石槨は、火葬した骨を納めるだけの小さなものになりました。
百年たらずのあいだに、2300トンの石を積む墓から、骨壺が入るだけの箱へ。
646年(大化2年)、朝廷は墓についての詔を出します。のちに薄葬令(はくそうれい)と呼ばれるものです。
内容は具体的でした。身分ごとに、墓室の寸法、動員してよい人数、かかってよい日数の上限を決める。庶民は土に埋めるだけとする。あわせて、殉死や、死者に殉じて財を費やすことを禁じました。
なぜこんな細かい規定が要ったのか。裏を返せば、それまでは各氏族が競うように墓を造っていたということです。人手も時間も、そこに吸い込まれていました。
ただし、令が出たから小さくなった、とは言い切れません。墳丘の縮小は令より前から進んでいました。すでに起きていた変化を、国が追認して制度にした面があります。
より大きいのは、序列を示す手段そのものが変わったことです。
603年に冠位十二階が定められ、以後、官位の制度が整えられていきます。誰が上で誰が下かは、冠の色、位階、官職、そして戸籍によって定まるようになりました。
国が律令によって組み上がっていくと、地位は制度のなかで決まり、制度のなかで示されます。墓を大きくして見せる必要がなくなる。墓は、もう力を測る物差しではなくなりました。
代わりに現れたのが、形による序列です。八角形は天皇、六角形は皇子クラス、その下に方墳、円墳。大きさの競争が終わり、形が身分を示すようになりました。中尾山古墳は対辺長19メートルしかありませんが、八角形である以上、天皇の陵として読めるのです。
同じころ、有力な氏族は寺を建てはじめます。
蘇我氏の飛鳥寺、蘇我倉山田石川麻呂の山田寺。それまで古墳に注いでいた財と人手が、伽藍の造営へ移りました。『日本書紀』にも、古墳を造る代わりに寺を建てるようになった、という趣旨の記述があります。
塔が建ち、瓦が葺かれ、金堂に仏が据えられる。村のどこからでも見える。示す装置としては、墳丘より寺のほうがよく働きます。しかも寺は、祖先を弔い続ける場でもありました。
死者を祀る場が、墓から寺へ移ったということです。
そして火葬が入ってきます。
700年(文武4年)、僧・道昭(どうしょう)が没し、遺言によって火葬されました。『続日本紀』は「天下の火葬、此より始まれり」と記します。道昭は唐で玄奘三蔵に学び、飛鳥寺に禅院を建てた僧です。
その二年後、702年に持統天皇が火葬されます。天皇が火葬された最初の例です。文武天皇も、707年の没後に火葬されました。
火葬は、墓の造りを根本から変えます。遺体を納めるなら、棺が入り、人が出入りできる石室が要る。石舞台の玄室は長さ7.7メートルありました。ところが骨壺を納めるだけなら、一辺1メートルに満たない箱で足ります。
巨石を運ぶ理由が消える。中尾山古墳の小さな石槨は、その結果です。
もうひとつ、見落とせないことがあります。人手が別の場所で必要になっていました。
七世紀の後半、国は都を造りはじめます。694年に藤原京へ遷都。碁盤目に道を通し、宮を築き、大官大寺や本薬師寺を建てる。運河を掘って木材を運び、瓦を焼く。動員された人数は、古墳の比ではありません。
同じころ、水利の整備や道の造成も進みます。国を動かすための土木が、墓を造るための土木に取って代わりました。
労働力は有限です。都を造る国に、巨大な墓を造る余力はありませんでした。
最後の古墳といえるのが、文武天皇の陵とみられる中尾山古墳です。文武天皇の没年は707年。
以後、天皇の墓は造営されはしますが、墳丘を築いて示すという性格を失います。奈良時代の天皇たちの陵は山にあり、規模も構造も、それまでとは別のものになりました。
四百年以上続いた古墳という葬り方が、ここで終わります。
飛鳥では、この縮小の過程を一日で歩けます。
石舞台古墳の巨石を見て、岩屋山古墳の切石の石室に入り、牽牛子塚古墳の八角形の斜面を見て、中尾山古墳まで行く。石はしだいに小さくなり、加工は細かくなり、最後は骨壺の箱になる。
同じ村のなかに、古墳が終わっていく百年が並んでいます。