飛鳥の明日香の里を(明日香村)散策スポット石舞台古墳

  • 夜間ライトアップされた石舞台古墳と、まわりの満開の桜
  • 晴天の日中に南西側から見た石舞台古墳。奥に多武峰の山並み

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石舞台古墳

いしぶたいこふん

巨石が積み上がった日本最大級の横穴式石室。明日香を象徴する風景。

むき出しの石室

田園のなかに、巨大な石のかたまりが積み上がっています。日本の古墳は土を盛った墳丘に覆われているのが普通ですが、ここは盛土が失われ、内部の石室だけが地上に姿を現しました。露出した天井石が平らで舞台のように見えることから、いつからか「石舞台」と呼ばれるようになりました。

築造は7世紀の初め頃とみられています。1952年に国の特別史跡に指定されました。飛鳥を訪れた人が最初に思い浮かべる風景であり、明日香村を象徴する存在になっています。

2,300トンの石

石室に使われている石は、およそ30個。総重量は約2,300トンと推定されています。とりわけ大きいのが2枚の天井石で、北側が約77トン、南側が約64トン。合わせて140トンを超える石が、支えもなく空中に架かっていることになります。

石材は花崗岩で、南東の多武峰(とうのみね)方面から運ばれたとみられています。数キロの距離を、車輪も重機もない時代に運び、しかも高さのある位置まで持ち上げた。修羅(しゅら)と呼ばれる木ぞりと、盛土でつくった坂を使ったと考えられていますが、実際の工程は分かっていません。

石室に入る

この古墳は、石室の内部に入って見学できます。日本最大級の横穴式石室で、遺体を納めた玄室は長さ約7.7メートル、幅約3.5メートル、高さ約4.7メートル。そこへ通じる羨道(せんどう)は長さ約11メートルあります。

中に立つと、頭上の天井石の厚みと重さがそのまま迫ってきます。石と石のあいだにはほとんど隙間がなく、面を合わせて積まれていることが分かります。

石室内からは凝灰岩の破片が見つかっており、家形石棺が納められていたと考えられています。棺そのものは残っていません。

失われた墳丘

もとは一辺約50メートルの方墳でした。周囲には濠がめぐり、その外側に堤が築かれていたことが調査で分かっています。いま墳丘のまわりに見える石敷きと段差は、その範囲を地表に示したものです。

盛土がいつ、なぜ失われたのかは分かっていません。自然に流れたとする見方のほか、被葬者への反感から暴かれたのだという説も語られてきました。

被葬者は蘇我馬子か

被葬者は蘇我馬子とする説が有力です。馬子は推古天皇の時代に権勢をふるい、飛鳥寺を建て、推古天皇34年(626年)に没しました。『日本書紀』はその墓を「桃原墓(ももはらのはか)」と記しています。

この地の古い地名「島庄(しまのしょう)」が、馬子の邸宅「嶋家」に由来するとみられること、規模がこの時代の最大級であること、飛鳥寺から見て手ごろな距離にあることが、説を支える材料になっています。ただし文字資料が出たわけではなく、確定はしていません。

発掘調査でわかったこと

本格的な発掘調査は1933年(昭和8年)と1935年に、京都帝国大学の浜田耕作らによって行われました。この調査で、墳丘がもとは方形だったこと、濠と外堤があったことが明らかになります。

石舞台という奇観が古くから知られていた一方で、それが古墳であると学術的に裏づけられたのは、この時が初めてでした。

「石舞台」という名

名前の由来ははっきりしません。狐が女性に化けて石の上で舞ったという言い伝えや、旅の芸人がこの石を舞台にして芸を見せたという話が伝わっています。

いずれも後の時代につくられた説明でしょうが、盛土を失って野ざらしになった巨石を前に、村の人たちが物語をこしらえて折り合いをつけてきた跡でもあります。

訪ねる

国営飛鳥歴史公園の石舞台地区にあり、周囲は芝生の広場として整備されています。春と秋にはライトアップが行われ、桜の時期には夜桜と石室をあわせて見られます。見学は有料です。

周辺には都塚古墳、岡寺、飛鳥宮跡があり、歩いてめぐれます。石舞台の南から坂を上がれば、稲渕の棚田と奥飛鳥へ続きます。

公開日 更新日

所在地
奈良県高市郡明日香村島庄
アクセス
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「石舞台」下車すぐ
カテゴリー
特別史跡/世界遺産/古墳/石造物

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