飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/都塚古墳
みやこづかこふん
石を段状に積んだ、階段ピラミッドのような方墳。
6世紀後半に造られた方墳です。石舞台古墳から南東へ坂を上がったところ、阪田の集落を見下ろす斜面にあります。
この古墳が広く知られるようになったのは2014年でした。調査によって、墳丘が石を何段にも積み上げた階段状の造りだったことが分かったのです。土を盛るのが普通の日本の古墳では例がなく、「階段ピラミッドのような古墳」として大きく報じられました。一辺はおよそ41メートルあります。
墳丘の斜面には、拳ほどから人の頭ほどの石が段になって並べられていました。段の数は少なくとも5段以上あるとみられています。
同じような造りは朝鮮半島の高句麗の古墳に見られます。蘇我氏が渡来系の技術者と深く結びついていたことを考えると、その影響を受けた可能性が指摘されています。日本の古墳の常識から外れた形が、飛鳥という土地の性格をよく表しています。
南に開いた横穴式石室は、いまも入口が残っています。全長はおよそ12メートル。内部には凝灰岩をくり抜いてつくった家形石棺が納められています。
石棺は長さ約2.2メートル、幅約1.5メートル、高さ約1.7メートル。屋根のような蓋を持つ形で、そのまま石室に据えられています。石室の規模と石棺の大きさから、相当な力を持った人物の墓と考えられています。
保存のため石室の入口には柵が設けられ、中に立ち入ることはできません。柵の外から、天井石と石棺の一部を見ることができます。
被葬者は蘇我稲目(そがのいなめ)とする説が有力です。稲目は6世紀半ばに大臣として権勢をふるい、仏教の受け入れを進めた人物で、馬子の父にあたります。
馬子の墓とされる石舞台古墳が坂を下ってすぐの場所にあることも、この説を支える材料になっています。親子の墓が坂の上と下に並んでいる、という見方です。
築造年代が6世紀後半とみられることも、稲目の没年(570年)と大きく矛盾しません。ただし、これも確定はしていません。
「金鳥塚(きんちょうづか)」という別名が伝わります。元旦の朝に金の鳥が鳴く、という言い伝えによるものです。
古墳の名前には、その土地の人がどう見てきたかが残ります。石舞台、鬼の俎、金鳥塚。学問の言葉とは別の呼び名が、飛鳥にはいくつも生きています。
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「石舞台」下車、徒歩約10分。石舞台から坂を上がる道すがら、棚田と集落が広がります。
訪れる人は多くありません。石舞台の賑わいから数分歩くだけで、静かな斜面に出ます。
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