飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム日本という国のはじまり ― 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の19件

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日本という国のはじまり ― 世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」の19件

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2026年7月26日に登録されました。選ばれたのは宮殿と寺と墓の跡だけ、しかもほとんどが地下にあります。この19件が示しているのは、日本という国のしくみができあがっていく百年あまりです。

登録されたのは、遺跡群

2026年7月26日、「飛鳥・藤原の宮都」が世界文化遺産に登録されました。明日香村・橿原市・桜井市にまたがる19件の遺跡が、ひとまとまりの資産として登録されています。

飛鳥宮跡の石敷広場と、中央に復元された石組みの井戸跡
飛鳥宮跡。630年から694年まで、四つの宮が同じ場所に重なった

社寺や城のように、建物が残っているわけではありません。19件のうち建物が建っているのは飛鳥寺くらいで、あとは礎石か、基壇か、田のなかの平地です。

説明板にはこう書かれています。「19件の構成資産が、地下に良好な状態で保存されています」。見えないことが前提の遺産なのです。

何を証明する遺産なのか

では、この19件は何のために選ばれたのか。

「日本列島において中央集権体制が誕生し成立した過程を証明している」。これが、この遺産の言い分です。

6世紀末から8世紀初頭にかけて、飛鳥と藤原という隣り合う二つの地域に、連続する二つの宮都が置かれました。飛鳥の宮都が588年から694年まで、藤原の宮都が694年から710年まで。前者が中央集権体制の「誕生」、後者が「成立」にあたります。

つまり、ひとつの国のしくみができあがっていく百年あまりを、土地と遺跡で示したものになります。

三つの種類しかない

19件の内訳は、宮殿・官衙跡、仏教寺院跡、墳墓の三つだけです。

この三つは、古代の東アジアで国家を統治するために欠かせないものでした。政治を行う場所、国を守る祈りの場所、統治する者を葬る場所。どれが欠けても国のかたちが立ち上がりません。

だから景勝地も街道も入っていません。三つの種類に絞られていること自体が、この遺産の主張になっています。

宮殿 ― 動かない宮ができる

飛鳥より前、天皇の宮殿は代替わりのたびに別の場所へ遷っていました。居所が動き続けるので政治の継続性が保てず、宮都というものが形づくられませんでした。

飛鳥宮跡では、630年から694年までのあいだに四つの宮殿が同じ位置に重なって建てられています。同じ場所に建て直すというのは、そこが権力の集まる場所として定まったということです。

宮殿には政治と儀式のための空間が加えられ、まわりには統治の実務を担う施設が置かれていきました。飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、酒船石遺跡がそれにあたります。庭園、水時計、祭祀の場。宮を中心に機能が足されていったことになります。

藤原宮跡いっぱいに広がる秋のコスモス畑。奥に大和三山のひとつ耳成山
藤原宮跡。約1km四方の宮のなかに、統治機構がまとめて置かれた

694年に遷った藤原京は、碁盤の目に道を通した日本で最初の本格的な条坊制の都で、京域は5キロメートル四方ほどありました。その中心に置かれたのが藤原宮です。

宮の区画はおよそ1キロメートル四方。周囲を大垣が囲み、十二の門が開いていました。その中央に、中国式の宮殿建築による大極殿(だいごくでん)を置き、朝堂院や役所群を宮のなかに集めています。天皇を社会の秩序の中心に据える体制が、建物の配置として形になりました。

寺 ― 古墳に代わる権威

仏教がこの列島に伝わったのは6世紀の中頃。インドで生まれ、中国と朝鮮半島を経由して届きました。

日本で最初に造られた本格的な寺院が飛鳥寺です。そしてこの寺の造営が、飛鳥盆地で本格的な宮都づくりが始まる端緒になりました。

飛鳥寺の本堂に座す飛鳥大仏。右手を上げた銅造の釈迦如来坐像
飛鳥寺。19件のうち、いまも堂が建って本尊が座っているのはここだけ

その後、盆地とその周辺では、皇族や氏族が自分の勢力地に寺を建てていきます。橘寺、山田寺、川原寺、檜隈寺。説明板はこれらを「前代の古墳築造に代わる権威の表象」と書いています。力を示す手段が、墓から寺へ移ったということです。

藤原宮へ遷ると、性格の違う寺が現れます。仏教で国を守ることを目的とした国家寺院です。藤原京全体の都市計画のなかに二つ置かれました。大官大寺には国家仏教の象徴である九重塔が、本薬師寺には塔を二つ並べる双塔式の伽藍が、新たに採用されています。

墳墓 ― 形で序列を示す

6世紀までの墳墓は、前方後円墳に代表される決まった形と、大きさの差によって権力の構造を示していました。日本列島で独自に発達したやり方です。

飛鳥の宮都では、これが改められます。有力者の墓には、中国の影響を受けた方墳が採られました。同時に、寺を建てることが権威を示す手段になったため、墓の規模は縮み、造られる数も減っていきます。石舞台古墳と菖蒲池古墳が、その時期のものです。

晴天の日中に南西側から見た石舞台古墳。奥に多武峰の山並み
石舞台古墳。方墳だが、盛土が失われて石室だけが残った

そしてこの時期に、日本独自の墳形が生まれます。八角墳です。牽牛子塚古墳がその例にあたります。

藤原の宮都になると、墓の形そのものが序列になります。最上位が八角墳(天武・持統天皇陵古墳、中尾山古墳)、それに次ぐのが円墳(キトラ古墳、高松塚古墳)。誰が上で誰が下かを、墳丘の形で目に見えるようにしたわけです。

これらの墓には、風水の考え方、版築という土を突き固める技法、石室に描かれた壁画など、東アジアの影響が強く出ています。

19件

飛鳥の宮都(588〜694年)から12件。飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池、飛鳥水落遺跡、酒船石遺跡、飛鳥寺跡、橘寺跡、山田寺跡、川原寺跡、檜隈寺跡、石舞台古墳、菖蒲池古墳、牽牛子塚古墳。

藤原の宮都(694〜710年)から7件。藤原宮跡、大官大寺跡、本薬師寺跡、天武・持統天皇陵古墳、中尾山古墳、キトラ古墳、高松塚古墳。

山田寺跡は桜井市、藤原宮跡・大官大寺跡・本薬師寺跡・菖蒲池古墳は橿原市にあります。村の外へも足を延ばすことになります。

見えないものを、見に行く

19件のほとんどは、地面の下にあります。訪ねても、草地と説明板しかない場所が少なくありません。

ただ、立っている場所の足元に何が眠っているかを知っていると、同じ草地が違って見えます。ここに四つの宮が重なっていた。ここに九重の塔が立っていた。ここに八角形の墳丘が築かれていた。

そう思いながら歩けるようになったことが、登録によって変わったいちばん大きなことかもしれません。

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