飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム飛鳥の王家の谷 ― 駅から歩ける範囲に、陵が集まっている

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飛鳥の王家の谷 ― 駅から歩ける範囲に、陵が集まっている

公開日

近鉄飛鳥駅の周り、平田・野口・越。数キロ四方に、天皇の陵とされる古墳がいくつも並んでいます。これほど密集した場所は、ほかにありません。

近鉄飛鳥駅で降りて、東へ10分も歩くと、濠をめぐらせた巨大な墳丘に出ます。欽明天皇陵です。

朝の欽明天皇陵の濠。水面に雲が映り、奥の山あいには雲海がかかる
朝の欽明天皇陵。濠に雲が映る

そこから道沿いに南へ進むと、鬼の俎・鬼の雪隠、天武・持統天皇陵。西へ折れれば高松塚古墳と中尾山古墳。駅の反対側へ回れば岩屋山古墳、牽牛子塚古墳。少し足をのばせばキトラ古墳とマルコ山古墳。

半日で全部歩けます。そしてそのほとんどが、天皇か、それに近い立場の人の墓と考えられています。

何があるのか

この一帯にあるものを、造られた順に並べてみます。

欽明天皇陵(梅山古墳)。全長およそ140メートルの前方後円墳で、明日香村で前方後円墳はここだけです。6世紀後半。

岩屋山古墳。7世紀半ばの方墳で、花崗岩を切って隙間なく積んだ石室に入れます。石を加工する技術が一段上がった時期の仕事です。

牽牛子塚古墳。7世紀後半の八角形墳。斉明天皇の陵とする説が有力です。すぐ南に越塚御門古墳が見つかっています。

天武・持統天皇陵(野口王墓)。八角形墳で、対辺長およそ37メートル。被葬者がほぼ確実とされる数少ない陵です。

高松塚古墳とキトラ古墳。どちらも壁画をもつ小さな円墳で、7世紀末から8世紀初め。

中尾山古墳。対辺長およそ19メートルの八角形墳。文武天皇の陵とみられています。八角形墳としては最後のものです。

ほかに、六角形墳のマルコ山古墳、石室が分解して残る鬼の俎・鬼の雪隠、猿石で知られる吉備姫王墓。

縮んでいく過程が、並んで見える

この順に歩くと、墓が小さくなっていく様子がそのまま目に入ります。

全長140メートルの前方後円墳から始まり、方墳になり、八角形になり、最後は対辺19メートルまで縮む。石も、巨石を架けるものから、切って積むもの、ひとつの石をくり抜くものへと変わります。

夕暮れの牽牛子塚古墳。凝灰岩の切石で覆われた八角形の墳丘
牽牛子塚古墳。八角形の墳丘が復元されている

百年あまりのあいだに何が起きたのかは、別のコラムに書きました。ここで言いたいのは、その変化が一日で歩ける範囲に並んでいるということです。

壁画をもつ二基

この一帯には、日本でごく限られた壁画古墳が二つあります。

正面から見た高松塚古墳。芝に覆われた円い墳丘と、手前の生け垣
高松塚古墳。いまは芝に覆われた円い墳丘

高松塚古墳は1972年に発見されました。極彩色の女子群像は「飛鳥美人」と呼ばれ、この村の名を全国に知らせることになります。

芝に覆われたキトラ古墳の墳丘と、「特別史跡 キトラ古墳」の石標
キトラ古墳。四神がすべてそろって確認された唯一の古墳

キトラ古墳では、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神がすべて確認されました。四神がそろった古墳は国内でここだけです。天井には、実際の観測にもとづく星図としては現存最古とされる天文図が描かれていました。

外から見ると、どちらも芝に覆われた小さな丘にすぎません。中にあるものと外見が、これほど釣り合わない場所も珍しいと思います。

ばらばらになった石室

道端に残る鬼の雪隠。奥の丘の上に鬼の俎があり、左手に飛鳥の田園が広がる
鬼の雪隠。斜面を転げ落ちて、いまの位置で仰向けになっている

同じ一帯に、墳丘を失って石だけが残されたものもあります。

鬼の俎と鬼の雪隠は、もとはひとつの石室でした。下の石をくり抜いて部屋とし、上の石を屋根の形に削って蓋にする。その蓋が斜面を転げ落ちて、道端に仰向けになっています。

ふつうは中にあって見られない面が、外を向いている。守られた陵と、放り出された石室が、数百メートルのなかに同居しています。

なぜここに集まったのか

はっきりした答えはありませんが、いくつか条件は挙げられます。

ひとつは土地です。この一帯は檜隈(ひのくま)と呼ばれてきました。宮内庁が欽明天皇陵につけている名は「檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)」、吉備姫王墓は「檜隈墓」です。飛鳥の宮からは南西へ2〜3キロ。低い丘陵が続き、田にしにくい土地でした。

もうひとつは人です。檜隈は渡来してきた人たちの拠点でもありました。檜隈寺跡が残り、西隣の高取町与楽には、彼らのものとみられる古墳群があります。石を切り、積み、運ぶ技術を持った人々が、すぐそばにいたことになります。

そして、宮からの距離でしょう。生活の場と切り離しつつ、遠すぎない。造営のたびに人と石を動かすことを考えれば、近いほうが都合がよい。

誰の墓かは、ほとんど決まっていない

拝所のわきに立つ宮内庁の制札。「欽明天皇 檜隈坂合陵」と記されている
「欽明天皇 檜隈坂合陵」と記された宮内庁の制札

この一帯を歩くと、宮内庁の制札を何度も見ることになります。ところが、そこに書かれた被葬者と、考古学が示す被葬者は、たびたび食い違います。

牽牛子塚古墳は斉明天皇の陵として有力視されていますが、治定は高取町の車木ケンノウ古墳です。中尾山古墳は文武天皇の陵とみられていますが、治定は栗原塚穴古墳にあります。欽明天皇陵についても、本来は丸山古墳(橿原市)ではないかという議論が続いています。

陵として管理されている場所は発掘ができません。そのため調査が進むのは治定されていない古墳のほうで、そこから有力な説が出てくる。この構図が、食い違いを固定させています。

被葬者がほぼ確実とされるのは、天武・持統天皇陵だけです。鎌倉時代に盗掘されたとき、内部を検分した記録が残っているためでした。

「王家の谷」と呼べるか

特定の王統の墓が、限られた範囲に集まっている。壁画があり、盗掘を受け、誰の墓かをめぐって議論が続いている。エジプトの王家の谷と重なるところは確かにあります。

ただし、正式な呼び名ではありません。そして違いも大きい。

王家の谷の王墓は、岩山を掘り抜いた地下の墓です。地上に目印を作らず、隠すことを目的としています。対して飛鳥の陵は、墳丘を築いて見せるものです。牽牛子塚古墳は、白い切石で覆われた斜面が日を受けて光っていたはずです。

隠す墓と、見せる墓。同じように集まっていても、考え方は逆を向いています。

それでも、ここを歩いていると「谷」と呼びたくなる気持ちは分かります。丘と丘のあいだの狭い範囲に、これだけの墓が詰まっている場所は、ほかにありません。

半日の歩き方

天武・持統天皇陵の拝所。石段の上に黒い門扉と石の玉垣、右手に宮内庁の制札が立つ
天武・持統天皇陵の拝所。墳丘には立ち入れない

近鉄飛鳥駅を起点にすると、次の順が歩きやすい道のりです。

駅 → 岩屋山古墳(5分)→ 牽牛子塚古墳(20分)→ 駅へ戻る → 欽明天皇陵・吉備姫王墓(10分)→ 鬼の俎・鬼の雪隠(すぐ)→ 天武・持統天皇陵(5分)→ 高松塚古墳(15分)→ 中尾山古墳(5分)→ 駅(15分)。

キトラ古墳とマルコ山古墳は少し離れるので、時間があれば足してください。

岩屋山古墳は石室に入れます。牽牛子塚古墳は八角形の斜面を外から見られます。天武・持統天皇陵と欽明天皇陵は宮内庁が管理しており、鳥居の前から拝礼する形になります。

石室に入るなら明かりを持っていってください。夏場は草が茂り、蚊が出ます。

歩いてみると

吉備姫王墓の柵の中に並ぶ猿石。手前は顔にしわを刻んだ「山王権現」、奥は帽子をかぶったような「僧」
吉備姫王墓の柵の中に並ぶ猿石

この一帯には、田があり、家があり、人が暮らしています。陵のすぐ隣で稲が育ち、鬼の雪隠の脇を軽トラックが通ります。

囲って保存された遺跡というより、墓のあいだに村がある、という印象を受けるかもしれません。実際、千三百年のあいだずっとそうだったのでしょう。

石は運び出され、猿石は墓の前に並べ直され、そのうちの一体は山を越えて高取城まで運ばれました。墓は残り、使われ方だけが変わり続けています。

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