飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム欽明天皇陵は、だれの墓なのか

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欽明天皇陵は、だれの墓なのか

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明日香村最大の前方後円墳をめぐっては、被葬者について複数の説が唱えられてきました。

朝の欽明天皇陵の濠。水面に雲が映り、奥の山あいには雲海がかかる
欽明天皇陵

明日香村で最大の前方後円墳

明日香村平田にある欽明天皇陵は、墳丘長およそ140mの前方後円墳です。村内では最大級の規模で、宮内庁が欽明天皇の檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)として管理しています。考古学の分野では梅山古墳(うめやまこふん)とも呼ばれます。

ただし、この古墳がほんとうに欽明天皇の墓なのかについては、古くから議論が続いてきました。ここでは代表的な二つの見方を紹介します。

説1:二つの墓がつながったもの、蘇我蝦夷・入鹿の墓ではないか

ひとつは、この古墳がもともと一基の前方後円墳ではなく、二つの墓が並んで築かれ、それがつながって現在の形になったのではないか、という見方です。

この説と結びつけて語られるのが、『日本書紀』に記された「双墓(ふたつのはか)」です。蘇我蝦夷が生前に自分と息子・入鹿の墓を並べて築き、大きいほうを自身の墓、小さいほうを入鹿の墓としたと伝えられています。この記述をもとに、現在の欽明天皇陵こそが蝦夷・入鹿親子の双墓にあたるのではないか、と考える研究者がいます。

蘇我氏の本拠は明日香一帯にあり、甘樫丘には蝦夷・入鹿の邸宅が営まれたと『日本書紀』は記します。地理的な近さも、この説が唱えられる背景にあります。

説2:本当の欽明陵は五条野丸山古墳ではないか

もうひとつは、すぐ近くにある五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)こそが本来の欽明天皇陵ではないか、という説です。

五条野丸山古墳は橿原市にある巨大な前方後円墳で、墳丘長はおよそ310mを超えます。奈良県内では最大、全国でも有数の規模です。築造時期も6世紀後半とされ、欽明天皇の没年と大きく矛盾しません。規模の面だけを見れば、現在の欽明天皇陵よりもはるかに大きく、大王の墓にふさわしいと考えられてきました。

大きさか、つくりか

では規模の大きい五条野丸山古墳が有力かというと、話はそう単純ではありません。

古墳を評価する材料は大きさだけではなく、墳丘の形や築成の丁寧さ、石室の構造、周囲の濠のめぐらせ方など、つくりそのものにも表れます。この点から、現在欽明天皇陵とされている古墳のほうが天皇陵としてふさわしい造営がなされている、と評価する見方もあります。

陵墓は宮内庁の管理下にあり、発掘調査が行われていません。決め手となる資料が得られないため、いずれの説も推論の域を出ないのが現状です。

歩くときの視点

墳丘のかたちを意識しながら周囲をたどると、くびれの位置や濠のめぐり方が見えてきます。答えの出ていない問いを抱えたまま歩くと、この古墳の見え方も少し変わってくるはずです。

すぐ隣には吉備姫王墓があり、その柵内には四体の猿石が置かれています。あわせて訪ねてみてください。

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