飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/日本書紀

殯の庭で「生きている王に仕えよ」と言い放ち、先の天皇の皇后に迫り、最後は蘇我馬子の兵に討たれた。『日本書紀』で評判の悪い穴穂部皇子は、欽明天皇の子で馬子の甥でもある、れっきとした皇位の候補でした。彼はなぜ消されたのか、記録から考えます。

643年、聖徳太子の子・山背大兄王は、蘇我入鹿の兵に追われて斑鳩で一族とともに命を絶ちました。母は蘇我馬子の娘。蘇我の血を引く皇子が、なぜ蘇我に滅ぼされたのか。皇位、上宮王家の力、入鹿以外の関与、そして『日本書紀』の描き方から考えます。

壬申の乱に勝って飛鳥に戻った天武天皇は、大臣を置かず、皇族とともに国を動かしました。豪族の民を国のものにし、家の格と人の位を天皇が決め、法と国の歴史を書かせる。律令国家の骨組みが見えてくるまでの14年をたどります。

684年、天武天皇は豪族の姓を八つの位に並べ直しました。かつて朝廷の頂点を分け合った臣と連は、6番目と7番目に。だれが上がり、だれが残されたのか。柿本人麻呂や大伴家持の名前にも、その跡が残っています。

蘇我馬子は大臣、物部守屋は大連。どちらも朝廷の最上位ですが、「臣」と「連」はもともと成り立ちの違う呼び名でした。土地の名を名乗る豪族と、仕事の名を名乗る家。その違いから、飛鳥の政治を読み解きます。

587年、蘇我馬子の軍に攻められ、物部守屋は河内の本拠で討たれました。仏を捨てた人、として知られる人物です。けれども彼について残る記録は、すべて勝った側が書いたものです。その記録を、守屋の側から読み直します。

聖徳太子の事績には、ほとんどいつも蘇我馬子の名が並びます。本当に国を動かしていたのは馬子で、太子の姿は馬子の事績を移したものではないか――。そんな説の根拠と、それに対する反論を紹介します。

飛鳥大仏から薬師寺の薬師三尊まで、およそ百年。仏像の顔つきは、つくらせる人と、海の向こうとの行き来しだいで、大きく変わりました。