飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/日本書紀

679年、天武天皇は吉野で六人の皇子に、争わないことを誓わせました。守られなかったことはよく知られています。ただ、一人ずつその後を追っていくと、殺し合いだけでは終わっていないことが見えてきます。

飛鳥のいちばん奥から山に入り、尾根をひとつ越えると吉野です。この道を、大海人皇子は追われるようにして越えました。同じ道を、持統天皇は在位のあいだに三十回以上も往復しています。

壬申の乱で軍を預かったのは、十九歳の長男でした。母の身分が低く、位からは遠いとされた人です。ただ、その死の扱いは、皇子のものにしては大きすぎました。

律令国家を仕上げた女帝として、夫の天武天皇と一続きに語られます。ただ、彼女は天智天皇の娘でもありました。父の跡を継ぐという意識のほうが強かったのではないか、と考えてみます。

古代の大王位は、兄から弟へ渡ることが少なくありませんでした。父から子へという線を引こうとして、一度は失敗します。二度目に定着させたのが持統天皇です。

神武天皇が即位した橿原。いまは橿原市の畝傍山麓とされています。御所市の柏原(かしはら)にも、同じ伝承が残っています。

中大兄皇子の「大兄」は、呼び名ではありません。皇位を継ぐ資格を示す言葉です。七世紀の前半、この言葉を持つ皇子が三人いました。

皇極天皇には、舒明天皇に嫁ぐ前にもうけた子がいました。漢皇子(あやのみこ)。『日本書紀』はその名を一度書いたきりで、以後どこにも出てきません。