飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム高市皇子 ― 位に遠いはずの長男が、「尊」と呼ばれている

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高市皇子 ― 位に遠いはずの長男が、「尊」と呼ばれている

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壬申の乱で軍を預かったのは、十九歳の長男でした。母の身分が低く、位からは遠いとされた人です。ただ、その死の扱いは、皇子のものにしては大きすぎました。

筑紫の娘の子

高市皇子(たけちのみこ)は654年ごろ、大海人皇子の長男として生まれました。のちの天武天皇の、いちばん上の子です。

母は尼子娘(あまこのいらつめ)。筑紫の豪族、宗形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘でした。宗形氏は玄界灘の航路を押さえた一族で、いまの宗像大社につながる家です。地方の豪族としては大きな存在ですが、大王の后妃を出す家ではありません。

当時、皇子の位置は母方の家で決まりました。長男であっても、母が筑紫の豪族の娘であれば、位に就く順番からは外れます。

十九歳で、軍を預かる

672年、壬申の乱。高市は数えで十九歳でした。

父の大海人は吉野を出て東国へ向かいます。高市は近江にいましたが、そこを抜け出して、伊賀の積殖山口(つげのやまぐち)で父に合流しました。

不破に陣を置いたあと、大海人は高市に軍事の全権を委ねます。『日本書紀』は、高市が諸将を指揮して近江朝廷の軍と戦った経過を、くわしく記しています。

乱は大海人の勝ちで終わり、飛鳥で即位して天武天皇となりました。

建物の柱の位置を示す白い標柱が並ぶ飛鳥宮跡。奥に飛鳥の集落と丘陵
飛鳥宮跡。乱に勝った天武は、ここに浄御原宮を営んだ

太政大臣として

天武が没したあと、皇太子だった草壁皇子も689年に亡くなります。

690年、持統天皇が即位すると、その年の七月、高市は太政大臣に任じられました。臣下の最高位です。

このとき、天武の皇子のなかで高市は最年長でした。兄弟継承の理屈でいけば、位に就く資格のある人です。実際、政務の頂点には置かれました。ただし天皇ではなく、太政大臣として。

696年7月、その高市が亡くなります。数えで四十三歳でした。

人麻呂が詠んだ、いちばん長い歌

高市の殯(もがり)にあたって、柿本人麻呂が挽歌を詠んでいます。『万葉集』巻二の199番です。

この歌は、長歌としては『万葉集』のなかで最も長いものです。百四十九句あります。壬申の乱で軍を率いた高市の姿を、太鼓の音や矢の飛ぶさままで含めて描き、その死を悼んで終わります。

問題は長さだけではありません。歌のなかで高市は「わご大君」と呼ばれています。天皇に対して使う言い方です。

「後皇子尊」

『日本書紀』の書き方も、少し変わっています。

高市の死を記す持統10年の条で、その名は「後皇子尊(のちのみこのみこと)」となっています。尊(みこと)は、天皇や皇后、皇太子に準じる人に付ける敬称です。

先に死んだ草壁皇子は「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)」と呼ばれました。その「後(のち)」の皇子尊、という呼び方になります。つまり高市は、草壁のあとを受けた皇太子格として扱われていたことになります。

母の身分から位に遠いとされた長男が、太政大臣になり、死ぬときには「尊」と呼ばれている。ここに引っかかりを覚えた人たちがいました。

即位していた、という説

高市は実は即位していたのではないか、という説があります。

根拠として挙げられるのは、いま見た二つ――人麻呂の挽歌の規模と天皇への呼びかけ、そして「後皇子尊」という敬称です。

もうひとつ、後の時代の材料があります。1988年、平城京の跡から長屋王の邸宅跡が見つかり、三万五千点を超える木簡が出土しました。そのなかに「長屋親王宮」と書かれたものがあります。

長屋王は高市の子です。制度のうえでは、天皇の子が親王、孫は王。天武の孫にあたる長屋王は「王」であるはずで、「親王」とは呼べません。父の高市が天皇であったなら筋が通る――という読み方です。

持統との取引だった、とする見方もあります。年長の高市に位を渡す代わりに、次は草壁の子の軽皇子(かるのみこ)へ戻す。そう取り決めたうえで即位し、記録からは消された、という筋書きです。

ただし、これを裏づける同時代の記録はありません。『日本書紀』にも『続日本紀』にも高市天皇は出てきませんし、木簡の「親王」も、当時の用法がまだ固まっていなかった、あるいは書き手の敬意にすぎないと見ることができます。歌の表現も、皇太子格への賛辞としてなら説明がつきます。

先に死んだのは、高市だった

高市が亡くなったのは696年7月です。持統が亡くなるのは702年12月で、六年あとのことでした。

高市の死の直後、次の位をだれに渡すかの議が開かれます。『懐風藻』が伝えるところでは、群臣の意見は割れて決まりませんでした。そこへ葛野王(かどののおおきみ)が立ちます。大友皇子の子で、母は天武の娘の十市皇女。天智と天武の両方につながる人です。我が国は子孫が相継いで位を承けるのが法であり、兄弟に及べば乱れる――そう述べました。弓削皇子(ゆげのみこ)が何か言おうとしたのを叱って黙らせ、議はそこで終わります。持統はこれを喜んだ、と書かれています。

翌697年2月、軽皇子は皇太子に立てられ、八月に位を譲られました。十五歳の文武天皇です。

この順番を入れ替えてみると、話はまるで変わります。

もし持統が先に亡くなり、高市が生きていたら。太政大臣であり、天武の皇子のなかで最年長であり、乱の功臣でもある人です。十五歳の孫に位を渡すという案が、そのまま通ったとは考えにくい。高市自身が立った目もありますし、その子の長屋王へ流れた目もあります。文武天皇は、いなかったかもしれません。

大津皇子は殺され、草壁は病で死に、高市は先に逝きました。持統は、そのすべてより長く生きています。

直系で位を継ぐという形は、持統の意思と手順だけで通ったのではありません。だれが先に死ぬかという、本人にはどうにもできない側の条件にも支えられていました。

芝に覆われたキトラ古墳の墳丘と、「特別史跡 キトラ古墳」の石標
キトラ古墳。被葬者は特定されておらず、高市皇子を候補に挙げる説もある

キトラ古墳の被葬者か

高市の名は、もうひとつ別の場所でも挙がります。キトラ古墳の被葬者です。

キトラは7世紀末から8世紀初めの円墳で、石室から見つかった骨と歯から、被葬者は中年以降の男性と推定されています。候補としては、天武の皇子たち、右大臣を務めた阿倍御主人(あべのみうし)、渡来系の高官などの名が出ています。高市もそのひとりです。

ただし、高市の墓については『延喜式』に記載があります。三立岡墓(みたちおかのはか)といい、大和国広瀬郡、いまの広陵町のあたりとされています。場所が違う、というのが高市説のいちばんの弱みです。

被葬者は、いまも決まっていません。

息子、長屋王

高市の子が長屋王(ながやおう)です。

父は天武の長男、母は天智の娘の御名部皇女(みなべのひめみこ)。天武と天智、両方の血を引いています。妻の吉備内親王は草壁皇子の娘で、こちらも同じ血筋です。

奈良時代に入って左大臣まで昇り、政治の中心に立ちました。相手は、藤原不比等の四人の子――武智麻呂・房前・宇合・麻呂の兄弟です。

729年2月、長屋王は密告されます。ひそかに左道(さどう)を学び、国家を傾けようとしている、という内容でした。邸は兵に囲まれ、二日後、長屋王は自ら死にます。吉備内親王と四人の子も、あとを追いました。

その半年後、不比等の娘の光明子が、聖武天皇の皇后に立てられます。皇族以外から皇后が出たのは、これが最初でした。

四人が、続けて死ぬ

737年、都で天然痘が流行します。

その年、藤原の四兄弟が相次いで死にました。四月に房前、七月に麻呂と武智麻呂、八月に宇合。ひとつの年に、四人ともいなくなっています。

長屋王の祟りだ、と噂されました。『日本霊異記』には、長屋王の骨を土佐へ流したところ土地の人が死んだため、紀伊へ移したという話が載っています。

翌738年には、密告した二人のうち中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)が、大伴子虫(おおとものこむし)に斬り殺されました。『続日本紀』によれば、二人が碁を打っていて長屋王のことに話が及び、子虫が激高したといいます。子虫は、かつて長屋王に仕えていた人でした。

密告が偽りだったと、当時から見られていたことになります。

残ったもの

位から遠いとされた長男は、乱で軍を率い、臣下の頂点に立ち、死んで「尊」と呼ばれました。即位したかどうかは分かりません。

その子は、藤原氏との争いに敗れて死に、祟る者として語られました。

飛鳥で見られるものは多くありません。天武・持統天皇陵に父の眠る場所があり、南のキトラ古墳に、名前だけが候補として挙がっています。

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