飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム誓いのあと ― 天武天皇の皇子たちは、どうなったか

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誓いのあと ― 天武天皇の皇子たちは、どうなったか

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679年、天武天皇は吉野で六人の皇子に、争わないことを誓わせました。守られなかったことはよく知られています。ただ、一人ずつその後を追っていくと、殺し合いだけでは終わっていないことが見えてきます。

盟約の六人

679年5月、天武天皇は皇后(のちの持統天皇)と六人の皇子を連れて吉野宮へ行きました。

六人は、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴。このうち草壁・大津・高市・忍壁は天武の子ですが、川島と志貴は天智天皇の子です。壬申の乱で戦った相手の側の皇子を、二人まぜてある。

天武は、千年ののちまで争うことのないようにと誓わせました。皇子たちは、母は違っても同じ母から生まれたように慈しみあうと誓い、天武はその皇子たちを衣の襟に抱き入れたと『日本書紀』は記します。吉野の盟約と呼ばれる場面です。

この誓いのあと、六人がどうなったかを順に見ていきます。

大津皇子 ― 最初に消えた

天武が没したのは686年9月。ひと月も経たない10月2日、大津皇子が謀反の罪で捕らえられ、翌日、死を賜ります。二十四歳でした。

母は大田皇女、天智の娘です。持統の姉にあたります。姉妹の産んだ子のうち、片方だけが残ったことになります。

盟約から七年。最初に破られたときの相手は、天武自身の子でした。

川島皇子 ― 告げた側

大津の謀反を朝廷に告げたのは川島皇子だった、と『懐風藻』は書いています。

同じ文は、二人が莫逆(ばくぎゃく)の友であったことも記します。そのうえで、人はこれを友を売る行いだと言い、いや身を全うするにはやむを得なかったのだとも言った、と両方を並べています。

なお『日本書紀』のほうは、密告者の名を書いていません。

川島は天智の子で、天武の代には帝紀の編纂を命じられた六人の筆頭に立っています。691年、三十五歳で没しました。

建物の柱の位置を示す白い標柱が並ぶ飛鳥宮跡。奥に飛鳥の集落と丘陵
飛鳥宮跡。盟約の七年後、ここで大津皇子は捕らえられた

草壁皇子 ― 継ぐはずだった人

大津が死んだあと、残ったのは草壁皇子です。母は持統。天武の生前から皇太子とされていました。

ところが689年4月、即位しないまま二十八歳で亡くなります。

死後は日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と呼ばれました。位には就かなかったのに、天皇に準じる敬称が与えられています。

高市皇子 ― 臣下の頂点まで

高市皇子は、天武の長男です。母が筑紫の豪族の娘だったため、位からは遠いとされていました。

壬申の乱では十九歳で軍を預かり、持統の代には太政大臣に就きます。696年、四十三歳で没しました。

その死の扱いをめぐって、実は即位していたのではないかという説があります。別のコラムで取り上げています。

忍壁皇子 ― 法をまとめる

忍壁皇子(おさかべのみこ)は、父が吉野へ退いたときに従った皇子のひとりです。

持統・文武の代には政務の側に立ち、大宝律令の編纂では撰定の総裁を務めました。701年に完成したこの法典は、日本で最初の体系的な律令です。

その後、知太政官事という、太政官の全体を見る職に就きます。705年に没しました。

兄弟が殺し合った同じ時期に、国の骨組みを組み立てる仕事をした皇子がいたことになります。

志貴皇子 ― 何もしなかった人

志貴皇子(しきのみこ)も天智の子です。盟約の六人のなかで、いちばん長く生きました。

政治の記録には、ほとんど出てきません。残っているのは歌のほうです。

石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる春に なりにけるかも(『万葉集』巻八・一四一八)

雪解けの水が岩を走り落ち、そのそばで蕨が芽を出している。春が来た、という歌です。争いの記録に名を残さなかった人が、この一首で知られています。

716年に没しました。そして没して五十四年後、その子の白壁王が即位します。光仁天皇です。草壁から続いた系統が称徳天皇で絶え、位は天智の血筋へ戻りました。

盟約の六人のうち、結果として皇統をつないだのは、いちばん政治から遠かったこの人だったことになります。

盟約に入っていなかった皇子たち

天武にはほかにも皇子がいました。盟約のとき幼かった者たちです。

舎人親王(とねりしんのう)は、『日本書紀』の編纂を総裁しました。720年に撰上されたこの書物は、盟約も大津の死も、すべてを記録した本人たちの側の記録です。子の大炊王は、のちに淳仁天皇として即位し、そして廃されました。

新田部親王(にいたべしんのう)の母は、藤原鎌足の娘の五百重娘(いおえのいらつめ)です。

長皇子(ながのみこ)、弓削皇子(ゆげのみこ)、穂積皇子(ほづみのみこ)は、『万葉集』に歌を残しています。弓削皇子は、高市の死後に次の位を議したとき、発言しようとして葛野王に叱られた人です。699年に没しました。

729年、二人が裁く側に立つ

話はもうひと世代あとまで続きます。

729年、長屋王が謀反を密告されました。長屋王は高市皇子の子です。

『続日本紀』によれば、その邸へ罪を糾(ただ)しに向かった使者のなかに、舎人親王と新田部親王の名があります。天武の子が二人、天武の孫を問い詰めに行ったことになります。

長屋王は二日後に自ら死に、妻の吉備内親王と四人の子も命を絶ちました。

舎人は735年、新田部も同じ年に没しています。

天武・持統天皇陵の拝所。石段の上に黒い門扉と石の玉垣、右手に宮内庁の制札が立つ
天武・持統天皇陵。誓わせた本人は、686年にここへ入った

誓いは、どこまで届いたか

六人のうち、位に就いた者はいません。草壁も高市も、就かないまま死にました。

殺されたのが一人、告げたとされる者が一人、法をまとめた者が一人、歌だけを残した者が一人。そして最後に皇統をつないだのは、その歌の人の子でした。

吉野の盟約が行われた吉野宮は、いまの吉野町宮滝にあたります。飛鳥からは芋峠を越えて半日の道のりです。持統が三十一回も通ったのは、この誓いの場所でもありました。

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