飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/芋峠を越えた二人 ― 大海人皇子は一度、持統天皇は三十一回
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飛鳥のいちばん奥から山に入り、尾根をひとつ越えると吉野です。この道を、大海人皇子は追われるようにして越えました。同じ道を、持統天皇は在位のあいだに三十回以上も往復しています。
飛鳥川をさかのぼると、田が段になり、集落が斜面に貼りつくようになります。栢森(かやのもり)を過ぎると人家は尽きて、道は杉林のなかへ入っていきます。
尾根を越えた先が吉野町千股。この越え口が芋峠です。飛鳥と吉野は、この一本の山越えでつながっていました。
宮のあった平地から峠までで、およそ一里半。峠を下って吉野宮のあった宮滝までは、さらに同じくらいあります。歩けば半日を超える道のりです。
天智天皇が病に倒れた671年10月、大海人皇子は病床に呼ばれます。後事を託されますが、辞退して出家しました。
『日本書紀』は、このとき大海人を見送った者の言葉を書き留めています。虎に翼をつけて放ったようなものだ――そう言った人がいた、と。
大海人は嶋宮に一泊し、翌日、吉野へ向かいました。従ったのは草壁皇子と忍壁皇子、妃の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、それに舎人が二十数人と女官が十数人。軍勢ではありません。
その鸕野讃良が、のちの持統天皇です。二人はこのとき、同じ峠を一緒に越えたことになります。
吉野へ退くことは、朝廷から離れることです。追手がかかればそれまでという状況でした。
翌672年6月、大海人は吉野を出て兵を挙げます。壬申の乱です。
ただし、このときは芋峠を戻っていません。吉野から東へ、宇陀を抜けて伊賀・伊勢へ入り、美濃の不破に陣を置きました。東国の兵を集めるための道筋です。
峠を越えて飛鳥へ帰るのではなく、背を向けて東へ回り込んだ。大海人が芋峠を越えたのは、下りの一度きりだったことになります。
乱に勝って即位した天武天皇は、679年5月、ふたたび吉野宮へ行きます。
このとき皇后(持統)と六人の皇子を連れていました。草壁、大津、高市、河嶋、忍壁、芝基。母の違う兄弟たちです。
天武は皇子たちに、千年ののちまで争うことのないようにと誓わせました。皇子たちは、母は違っても同じ母から生まれたように慈しみあうと誓い、天武はそれを衣の襟に抱き入れたと『日本書紀』は記します。吉野の盟約と呼ばれます。
誓いが守られなかったことは、のちの出来事が示すとおりです。天武の死の直後に大津皇子が殺され、草壁は即位しないまま病で死にました。
持統が吉野へ行幸した回数は、『日本書紀』の記録から三十一回と数えられています。
即位したのが690年、位を譲ったのが697年ですから、在位はわずか八年ほど。年に三回から四回の割合で吉野へ通っていたことになります。
季節も選んでいません。雪の季節にも出かけています。輿に乗るとはいえ、供の者は山道を歩くわけで、一行が動けば相応の負担が出ます。
これほど繰り返された行幸は、ほかの天皇には見当たりません。
理由ははっきり書かれておらず、いくつもの読み方があります。
ひとつは、壬申の乱の出発点だから、というものです。吉野に退いた者が勝って位に就いた。その始まりの場所へ戻ることは、いまの体制がどこから来たのかを示す行いになります。
盟約の場所だから、という読みもあります。皇子たちに誓わせた場所へ、その誓いが崩れていく過程で通い続けたことになります。
吉野という土地そのものを見る説もあります。水が清く、山が深い。神仙の住む場所として意識されていたとされ、人麻呂も吉野の宮を讃える歌を残しています。
そして、夫と二人で越えた道だから、という読み方もあります。671年に峠を下ったとき、彼女は数えで二十七歳でした。
どれかひとつに決まる材料はありません。ただ、回数の多さだけは記録として残っています。
峠の解説板に、天武天皇の歌が引かれています。『万葉集』巻一の二十五番です。
み吉野の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)なくぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来し その山道を
絶え間なく降る雪や雨のように、道の曲がり角ごとに物思いをしながら来た、という歌です。
いつ詠まれたものかは分かりません。吉野へ下るときのものと読めば、位を捨てて山へ入る者の歌になります。
同じ解説板には、万葉学者の犬養孝が書いた一節も引かれています。歩くことで失われた距離の感覚を取り戻せる、という趣旨のことばです。
いま峠を越える人はほとんどいません。県道が通り、車なら飛鳥から二十分ほどで着いてしまいます。
それでも、古道の区間は一キロほど残っています。落ち葉と苔に覆われた土の道です。ここを下れば吉野、上れば飛鳥。二人が越えたのは、こういう道でした。
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