飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/持統天皇は、だれの跡を継いだのか ― 天武の皇后であり、天智の娘
公開日
律令国家を仕上げた女帝として、夫の天武天皇と一続きに語られます。ただ、彼女は天智天皇の娘でもありました。父の跡を継ぐという意識のほうが強かったのではないか、と考えてみます。
持統天皇は、名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。645年、乙巳の変が起きた年に生まれました。
父は中大兄皇子、のちの天智天皇です。母は遠智娘(おちのいらつめ)。蘇我倉山田石川麻呂の娘です。その祖父の石川麻呂は、讃良が四歳のときに山田寺で自害しています。
十三歳で、父の弟である大海人皇子に嫁ぎました。叔父と姪の婚姻です。姉の大田皇女もすでに大海人に嫁いでおり、のちには妹の大江皇女と新田部皇女も加わります。天智は四人の娘を、弟のもとへ送ったことになります。
671年に天智が没し、翌年、夫の大海人が兵を挙げます。壬申の乱です。
戦う相手は、天智の子の大友皇子でした。讃良にとっては異母弟にあたります。『日本書紀』は、吉野を出る大海人に讃良が従ったと記します。夫の側に立って、父の残した朝廷と戦ったわけです。
勝った大海人は飛鳥で即位し、天武天皇となりました。讃良は皇后になります。
686年に天武が没すると、持統は称制に入ります。即位しないまま政務を執ることです。690年に自ら位に就きました。
この時期に形になったものは、多くが天武の始めた仕事でした。689年の飛鳥浄御原令、翌年の伊勢神宮の第一回式年遷宮、694年の藤原京遷都、そして帝紀の編纂。いずれも天武が着手し、持統が仕上げています。
ですから普通は、この二代は一続きに語られます。夫が構想し、妻が完成させた。天武・持統朝という言い方が、そのまま定着しています。
そのなかに、ひとり気になる人物がいます。藤原不比等(ふひと)です。
不比等は659年、中臣鎌足の次男として生まれました。鎌足は天智の腹心だった人です。乙巳の変を中大兄とともに起こし、死の前日に藤原の姓を与えられました。
ところが壬申の乱で、中臣氏は近江朝廷の側につきます。鎌足の従兄弟の中臣金(なかとみのかね)は、乱のあと処刑されました。天武の代に、この一族が中央にいた形跡はほとんどありません。不比等自身も、乱のときは数えで十四歳。名前は出てきません。
その不比等が史料に現れるのは、持統3年(689年)です。判事(ことわるつかさ)に任じられた、という一行だけ。三十一歳になっていました。
そこから先は速く進みます。大宝律令の編纂に加わり、701年には正三位大納言。娘の宮子は文武天皇に入り、生まれた首皇子(おびとのみこ)が聖武天皇になります。藤原氏が朝廷の中心に座る道は、ここから始まりました。
沈んでいた家の子を引き出したのは、持統の朝廷だったことになります。
理由はいくつも考えられます。
ひとつは実務です。壬申の乱で功のあった豪族はそれぞれ力を持っていました。そこに属さない不比等のような人物のほうが、天皇に直接つながる官僚として使いやすい。
能力の問題もあります。最初の官職が判事、つまり裁きを扱う役でした。法に明るい人物だったのでしょう。大宝律令の編纂に加わったことも、それを裏づけます。
ただ、そのうえで「鎌足の子である」という事実は残ります。鎌足は天武の臣ではなく、天智の臣でした。持統が不比等を引き出したことは、父の側近の家をもう一度起こしたことでもあります。
持統が没して五年後の707年、元明天皇が即位します。そのときの宣命に、不改常典(かわるまじきつねののり)という言葉が出てきます。
近江大津宮で天下を治めた天皇が定めた、改めてはならない法――と説明されます。近江大津宮の天皇とは、天智のことです。
何を定めた法なのかは書かれていません。直系で位を継ぐという原則を指すとみる説が有力ですが、条文は残っておらず、確かめようがないのが実情です。
それでも、ひとつだけはっきりしていることがあります。持統が敷いた継承の形を正当化するとき、持ち出されたのは天武の名ではなく、天智の名だったということです。
ここまでを並べてみると、別の像が浮かびます。
天智は、弟ではなく息子に位を渡そうとして失敗しました。持統は草壁皇子に渡そうとし、草壁が先に死ぬと孫の文武に渡しています。父が果たせなかったことを、娘が形にしたことになります。
天智が670年に作った全国の戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)に対して、持統は690年に庚寅年籍を作り、以後六年ごとに戸籍を作ることを定めました。父が一度きりで終わらせたものを、続く制度にしたとも言えます。
そして、父の腹心の家の子を政治の中枢に据えた。
夫の遺志を継いだというより、父の跡を継いだ。そういう意識のほうが強かったのではないか。そう読むこともできる、ということです。
持統は在位の前後を通じて、吉野へ三十回を超えて行幸しています。吉野は、壬申の乱の前に夫とともに下った場所です。
天武が没したときには、二年を超える殯(もがり)を営みました。そして自らは火葬され、天武と同じ陵に葬られています。天皇の火葬は、これが最初です。
律令も都も、天武の設計をそのまま引き継ぎました。父の路線に戻したのであれば、都を近江へ移すという道もありえたはずですが、そうはしていません。
そもそも持統自身が何を考えていたかは、どこにも書かれていません。残っているのは、やったことだけです。
明日香村野口に、天武・持統天皇陵があります。
鎌倉時代に盗掘されており、そのときの記録『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』が残っているため、内部の様子が分かる数少ない陵です。天武の棺と、持統の骨を納めた銀の容器が並べて置かれていた、と記されています。
父のことも夫のことも、本人は何も言い残しませんでした。並べて置かれた二つを、どう読むかだけが残っています。
RELATED SPOT

てんむ・じとうてんのうりょう
被葬者が記録から確かめられる、数少ない八角形の陵。

ふじわらきゅうせき
日本初の本格的な都城の中枢。四季の花畑でも知られる。

たんざんじんじゃ
大化改新の密談の地と伝わる山中の社。木造十三重塔は世界で唯一。

あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。
RELATED COLUMN