飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/兄から弟へ、ではなくなった ― 直系で継ぐという形
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古代の大王位は、兄から弟へ渡ることが少なくありませんでした。父から子へという線を引こうとして、一度は失敗します。二度目に定着させたのが持統天皇です。
欽明天皇の子は、敏達・用明・崇峻・推古と、四人が続けて位に就きました。舒明天皇のあとは皇極天皇が立ち、その弟の孝徳天皇へ渡ります。
古代の皇位は、父から子へまっすぐ下りていくものではありませんでした。兄弟のあいだを横に動くことが、めずらしくなかったのです。
理由のひとつは、即位に求められたものだと考えられています。群臣をまとめ、政務を執るには、ある程度の年齢と経験が要る。前の天皇の子がまだ幼ければ、弟のほうが現実的でした。
この形を変えようとしたのが天智天皇です。
弟の大海人皇子が後継とされていましたが、天智10年(671年)、天智は息子の大友皇子を太政大臣に任じます。政務の頂点に置いたことになります。
同じ年の冬、病床の天智は大海人を呼び、後事を託そうとしました。大海人は辞退して出家し、吉野へ下ります。受ければ殺されると見た、と読むのが通例です。
天智はその年の暮れに亡くなりました。翌672年、大海人は兵を挙げ、大友皇子を破ります。壬申の乱です。
父から子へ渡そうとする試みは、一度ここで失敗しました。位は結局、弟へ移ったことになります。
その大海人、天武天皇が亡くなったのは686年9月9日です。
ひと月も経たない10月2日、大津皇子が謀反の罪で捕らえられ、翌日、死を賜ります。24歳でした。
大津は天武の子で、母は大田皇女。もうひとりの皇子、草壁の母は鸕野讃良皇女、のちの持統天皇です。二人の母は姉妹で、大田が姉にあたります。
『日本書紀』は大津を、容姿にすぐれ度量が大きく、人望を集めたと書きます。殺した側が編ませた書物の評価です。
死に臨んで磐余の池の鴨を詠んだ歌が、『万葉集』に残っています。
残った草壁皇子は、天武の生前から皇太子とされていました。
ところが689年4月、即位しないまま28歳で亡くなります。子の軽皇子は、まだ7歳でした。
ここで兄弟継承の理屈に戻るなら、天武のほかの皇子が立つ番です。実際、高市皇子をはじめ、年長の皇子が何人も残っていました。
持統は、そうしませんでした。
690年に自ら即位し、697年、15歳になった軽皇子に位を譲ります。文武天皇です。譲ったあとは太上天皇として後ろに控えました。
祖母から孫へ。父子でも兄弟でもない渡し方で、草壁の血筋に位をつなげたことになります。
ここで、神話のほうを見てみます。
天孫降臨では、アマテラスが葦原中国を治めさせようとしたのは、まず子のアメノオシホミミでした。ところがオシホミミは降らず、代わりに孫のニニギが地上へ降ります。
アマテラスを持統、オシホミミを草壁、ニニギを文武に重ねて読む説があります。子が継がず、孫が受け取るという筋立てが、持統朝の事情と一致するためです。
『古事記』は712年、『日本書紀』は720年にできあがりました。編纂が本格的に進んだのは、まさにこの時期です。
もっとも、神話の骨格が以前からあったものを持統朝に当てはめただけという見方もあり、決め手はありません。
文武のあとは、母の元明天皇、姉の元正天皇と女帝が続き、文武の子の聖武天皇へ渡ります。聖武の娘が孝謙天皇。途中に天武の孫が立つ時期を挟みながら、孝謙は称徳天皇として位に戻りました。
草壁の血を引く天皇が、八十年近く続いたことになります。女帝が位を預かって次へつなぐ形も、このあいだに繰り返されました。
その系統は、子のなかった称徳で絶えます。次に立ったのは、天智の孫にあたる光仁天皇でした。
元明天皇が即位したときの宣命に、不改常典(かわるまじきつねののり)という言葉が出てきます。天智天皇が定めた、改めてはならない法とされています。
何を定めた法なのかは書かれていません。直系で継ぐという原則を指すとする説が有力ですが、確かめようがないのが実情です。
はっきりしているのは、天智が試みて失敗したことを、持統が実際に形にしたということです。大津皇子の死も、孫への譲位も、太上天皇という立場も、その線上にあります。
天武・持統天皇陵は明日香村野口にあります。八角形の陵に、二人が合葬されています。
飛鳥宮跡には、天武と持統が政務を執った浄御原宮の跡が重なっています。
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てんむ・じとうてんのうりょう
被葬者が記録から確かめられる、数少ない八角形の陵。

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複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

いわれみちひ
「磐余道」と刻まれた標石。井上靖の揮毫による。
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