飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/「大兄」は名前ではない ― 中大兄・古人大兄・山背大兄
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中大兄皇子の「大兄」は、呼び名ではありません。皇位を継ぐ資格を示す言葉です。七世紀の前半、この言葉を持つ皇子が三人いました。
大兄(おおえ)は、天皇の子のうち、皇位を継ぐ資格を持つとみなされた者に付いた称号です。
舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)と中大兄皇子。いずれも名の一部のように見えて、その実は身分の表示です。
のちの皇太子にあたる地位、と説明されることがあります。ただし、ひとつの地位に一人と定める後の皇太子とは違い、大兄は同じ時期に何人もいました。制度としてどこまで定まっていたのかについては議論があります。
はっきりしているのは、誰が大兄になるかに母の家柄が関わっていたこと、そして大兄であることが、皇位に手が届く位置にいるという意味だったことです。
中大兄の「中」は、二番目という意味にとるのが一般的です。
上に、古人大兄皇子がいました。二人とも舒明天皇の子ですが、母が違います。
古人大兄の母は蘇我馬子の娘・法提郎媛(ほほてのいらつめ)。中大兄の母は宝皇女、のちの皇極天皇です。
同じ父を持ちながら、背負う家が違う。蘇我氏にとって、推すべきはどちらかがはっきりしていました。
七世紀の前半、大兄と呼ばれる皇子が三人いました。山背大兄王、古人大兄皇子、中大兄皇子です。
資格を持つ者が同時に複数いるということは、決着がつくまで争うということでもあります。
皇極天皇2年(643年)11月、蘇我入鹿は兵を送って斑鳩宮を襲わせました。
山背大兄王はいったん生駒山へ逃れますが、数日後に斑鳩寺へ戻り、一族とともに自害します。厩戸皇子の家系は、ここで絶えました。
入鹿が推していたのは古人大兄皇子です。蘇我氏の血を引く皇子を立てるうえで、山背大兄王は邪魔でした。
その二年後、乙巳の変で入鹿が討たれます。後ろ盾を失った古人大兄は出家し、吉野へ入りました。
同じ年の9月、謀反を企てているという密告があり、中大兄が兵を送ります。古人大兄は殺されました。
二年のあいだに、二人の大兄が消えたことになります。残ったのは中大兄です。
大化のあと、「大兄」を持つ皇子は現れません。
『日本書紀』は、孝徳天皇の即位にあたって中大兄を皇太子としたと記します。資格のある者が何人もいる仕組みから、一人を定める仕組みへ移っていく、その境目にあたります。
もっとも、定めれば争いが終わるわけでもありませんでした。天智天皇の死後、その子の大友皇子と弟の大海人皇子が戦います。壬申の乱です。
天智天皇は、即位してからの名よりも「中大兄」で呼ばれることが多い天皇です。
地位を示すはずの言葉が、そのまま人を指す名として残りました。大兄と呼ばれた三人のうち、最後まで残った一人だけが、その称号を名前にして伝わっています。
飛鳥宮跡は明日香村岡にあります。乙巳の変の舞台と伝わる板蓋宮の跡が、いくつもの宮に重なって残ります。
甘樫丘からは、その宮跡も大和三山も見渡せます。蘇我氏がここに邸宅を構えた意味が、立ってみると分かります。
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あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

あまかしのおか
飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。

とゆらのみやあと
推古天皇が即位した、飛鳥時代のはじまりの宮の跡。
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