飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム「大兄」は名前ではない ― 中大兄・古人大兄・山背大兄

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「大兄」は名前ではない ― 中大兄・古人大兄・山背大兄

公開日

中大兄皇子の「大兄」は、呼び名ではありません。皇位を継ぐ資格を示す言葉です。七世紀の前半、この言葉を持つ皇子が三人いました。

地位を示す言葉

大兄(おおえ)は、天皇の子のうち、皇位を継ぐ資格を持つとみなされた者に付いた称号です。

舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)、厩戸皇子の子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)、舒明天皇の子の古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)と中大兄皇子。いずれも名の一部のように見えて、その実は身分の表示です。

のちの皇太子にあたる地位、と説明されることがあります。ただし、ひとつの地位に一人と定める後の皇太子とは違い、大兄は同じ時期に何人もいました。制度としてどこまで定まっていたのかについては議論があります。

はっきりしているのは、誰が大兄になるかに母の家柄が関わっていたこと、そして大兄であることが、皇位に手が届く位置にいるという意味だったことです。

なぜ「中」なのか

中大兄の「中」は、二番目という意味にとるのが一般的です。

上に、古人大兄皇子がいました。二人とも舒明天皇の子ですが、母が違います。

古人大兄の母は蘇我馬子の娘・法提郎媛(ほほてのいらつめ)。中大兄の母は宝皇女、のちの皇極天皇です。

同じ父を持ちながら、背負う家が違う。蘇我氏にとって、推すべきはどちらかがはっきりしていました。

甘樫丘地区の芝生の広場。瓦屋根の休憩所が建ち、まわりを木立が囲む
甘樫丘。蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったと『日本書紀』は書く

大兄が並び立った時代

七世紀の前半、大兄と呼ばれる皇子が三人いました。山背大兄王、古人大兄皇子、中大兄皇子です。

資格を持つ者が同時に複数いるということは、決着がつくまで争うということでもあります。

欽明天皇から皇極天皇までの系図 欽明天皇の子の敏達・用明・崇峻・推古が続けて即位し、敏達の子の押坂彦人大兄皇子から舒明天皇が、舒明と皇極の子として中大兄皇子と大海人皇子が、舒明の別の妃の子として古人大兄皇子が、用明の子の厩戸皇子から山背大兄王が出る系図。押坂彦人大兄・古人大兄・中大兄・山背大兄の四人が「大兄」の称号をもつ。 欽明天皇 敏達天皇 30代 用明天皇 31代 崇峻天皇 32代 推古天皇 33代 押坂彦人大兄皇子 即位せず 厩戸皇子 聖徳太子 舒明天皇 34代 皇極天皇 35代・宝皇女 古人大兄皇子 645年 殺される 中大兄皇子 天智天皇・38代 大海人皇子 天武天皇・40代 山背大兄王 643年 自害 ※ 皇極天皇は押坂彦人大兄皇子の孫(茅渟王の娘)で、舒明天皇とはまたいとこにあたる。 ※ 古人大兄皇子の母は蘇我馬子の娘・法提郎媛。中大兄・大海人の母は皇極天皇。 「大兄」の称号をもつ皇子 即位した天皇(数字は代)
欽明天皇から皇極天皇まで。枠の色が濃い四人が「大兄」を持つ

643年、山背大兄王

皇極天皇2年(643年)11月、蘇我入鹿は兵を送って斑鳩宮を襲わせました。

山背大兄王はいったん生駒山へ逃れますが、数日後に斑鳩寺へ戻り、一族とともに自害します。厩戸皇子の家系は、ここで絶えました。

入鹿が推していたのは古人大兄皇子です。蘇我氏の血を引く皇子を立てるうえで、山背大兄王は邪魔でした。

645年、古人大兄皇子

その二年後、乙巳の変で入鹿が討たれます。後ろ盾を失った古人大兄は出家し、吉野へ入りました。

同じ年の9月、謀反を企てているという密告があり、中大兄が兵を送ります。古人大兄は殺されました。

二年のあいだに、二人の大兄が消えたことになります。残ったのは中大兄です。

飛鳥宮跡の石敷広場と、中央に復元された石組みの井戸跡
飛鳥宮跡。乙巳の変の舞台と伝わる板蓋宮が、この下に重なっている

大兄がいなくなる

大化のあと、「大兄」を持つ皇子は現れません。

『日本書紀』は、孝徳天皇の即位にあたって中大兄を皇太子としたと記します。資格のある者が何人もいる仕組みから、一人を定める仕組みへ移っていく、その境目にあたります。

もっとも、定めれば争いが終わるわけでもありませんでした。天智天皇の死後、その子の大友皇子と弟の大海人皇子が戦います。壬申の乱です。

名前として残った

天智天皇は、即位してからの名よりも「中大兄」で呼ばれることが多い天皇です。

地位を示すはずの言葉が、そのまま人を指す名として残りました。大兄と呼ばれた三人のうち、最後まで残った一人だけが、その称号を名前にして伝わっています。

訪ねるなら

飛鳥宮跡は明日香村岡にあります。乙巳の変の舞台と伝わる板蓋宮の跡が、いくつもの宮に重なって残ります。

甘樫丘からは、その宮跡も大和三山も見渡せます。蘇我氏がここに邸宅を構えた意味が、立ってみると分かります。

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