飛鳥の明日香の里を(明日香村)コラム天武天皇は、弟だったのか ― 漢皇子という消えた名前

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天武天皇は、弟だったのか ― 漢皇子という消えた名前

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皇極天皇には、舒明天皇に嫁ぐ前にもうけた子がいました。漢皇子(あやのみこ)。『日本書紀』はその名を一度書いたきりで、以後どこにも出てきません。

一度だけ書かれた皇子

『日本書紀』の皇極天皇即位前紀に、こんな一文があります。

宝皇女(たからのひめみこ)は、はじめ用明天皇の孫である高向王(たかむくのおおきみ)に嫁いで、漢皇子を生んだ。のちに舒明天皇に嫁いで、二男一女を生んだ。

宝皇女とは、のちの皇極天皇、重祚して斉明天皇となる人です。舒明とのあいだの二男一女が、葛城皇子(中大兄皇子、のちの天智天皇)、間人皇女、大海人皇子(のちの天武天皇)にあたります。

漢皇子は、この三人の異父兄ということになります。ところが『日本書紀』で漢皇子の名が出てくるのは、この一度きりです。その後どう生きたのか、いつ死んだのか、何も書かれていません。

弟のほうが年上になってしまう

もうひとつ、古くから指摘されてきたことがあります。天智と天武の年齢です。

『日本書紀』は、天智・天武のどちらについても亡くなったときの年齢を書いていません。年齢を伝えるのは、平安時代以降に編まれた史料です。

天智は671年に亡くなり、46歳だったと伝えられます。逆算すると626年の生まれです。

天武は686年に亡くなりました。その年齢を、『本朝皇胤紹運録』は65歳、『一代要記』は73歳とします。65歳なら622年、73歳なら614年の生まれです。

どちらで計算しても、弟であるはずの天武が、兄の天智より年上になってしまいます。

天武・持統天皇陵の拝所。石段の上に黒い門扉と石の玉垣、右手に宮内庁の制札が立つ
天武・持統天皇陵。二人が合葬されていることは記録から分かっている

同じ人ではないか、という読み

この食い違いを説明する試みのひとつが、天武天皇と漢皇子を同じ人とみる説です。1970年代に唱えられ、以後くりかえし取り上げられてきました。

漢皇子が高向王の子であれば、天智より先に生まれていておかしくありません。年上なのに弟として扱われている理由も、異父の兄だからだと説明がつきます。

一度書かれたきり消えてしまうことも、名前が変わったからだと読めます。

その説の弱いところ

一方で、根拠は強いとは言えません。

まず、天武の年齢を伝える史料が、いずれも平安時代以降の編纂物だという点です。65歳・73歳のほかに56歳とするものもあり、数字がそろっていません。後世の記載のほうが誤っている、と考えるのが一般的な見方です。

それから、『日本書紀』が編まれた事情があります。完成は720年。天武の子孫が国を治めていた時代です。天武が舒明の子でないとすれば、皇位の正統性に関わります。隠したい事実なら、漢皇子の記事ごと消すほうが早い。

その漢皇子を、わざわざ書き残している。同一説にとっては、ここが弱点にもなります。

それでも消えない理由

説が残り続けるのは、空白があるからです。

皇極天皇の最初の子が、どこへ行ったのか分からない。天智と天武の年齢が合わない。そして二人の関係は、壬申の乱で天智の子と天武が争うところまで行き着きます。

「大海人」という名についても、凡海(おおしあま)氏に養育されたからだとする説があります。皇子が誰に育てられたかは、当時の力関係と無縁ではありません。

どれも決め手にはなりませんが、問いを立てるには十分な材料です。

『日本書紀』が書かなかったこと

この話でいちばん確かなのは、『日本書紀』が漢皇子について一行だけ書き、あとは触れなかったという事実です。

皇極天皇の経歴を記すうえで、前の結婚に触れないわけにいかなかったのか。それとも、書いておく必要があったのか。

説はいくつも立ちますが、どれも決め手を欠いたままです。

訪ねるなら

天武・持統天皇陵は明日香村野口にあります。八角形の陵で、天武と持統が合葬されていることは、鎌倉時代の盗掘の記録から分かっています。

飛鳥宮跡には、天武が政治を執った浄御原宮の跡も重なっています。

建物の柱の位置を示す白い標柱が並ぶ飛鳥宮跡。奥に飛鳥の集落と丘陵
飛鳥宮跡。板蓋宮から浄御原宮まで、いくつもの宮が重なっている

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