飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/婚礼の夜に、花嫁が消えた ― 遠智娘が嫁ぐまで
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中臣鎌足が用意した縁組でした。蘇我倉山田石川麻呂の長女が中大兄皇子に嫁ぐ。その婚礼の夜、娘は一族の男に連れ去られます。
645年の乙巳の変の前、中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を討つ算段を進めていました。
蘇我氏を討つには、蘇我氏のなかに味方が要る。鎌子が目をつけたのが、本宗家とは別の家の蘇我倉山田石川麻呂でした。
結びつける手段は婚姻です。石川麻呂の長女を中大兄に嫁がせる。話はまとまりました。
ところが、その夜に娘がいなくなります。
『日本書紀』は、婚儀の夜に一族の者が娘を連れ去って逃げた、と記します。割注に添えられた名は身狭臣(むさのおみ)。石川麻呂の異母弟である蘇我日向(またの名を身刺)と同じ人とみられています。
石川麻呂は仰ぎ臥して、どうしてよいか分からなかった、とあります。縁組が壊れただけではありません。中大兄との約束を違えたことになるのです。
父の様子がおかしいことに、妹が気づきます。
理由を尋ね、事情を聞いたうえで、こう言ったと『日本書紀』は書きます。憂えないでください。私を差し出してください、遅くはありません。
父は大いに喜び、その娘を献じました。娘は誠実に仕え、心が傾くことはなかった、と記事は結ばれます。
本文に名前はありません。この妹が遠智娘(おちのいらつめ)だとされています。
同じ出来事が、四年後の記事にも顔を出します。
大化5年(649年)、石川麻呂が謀反を疑われて死ぬ場面です。『日本書紀』はその経緯を本文で記したあと、「或本に云わく」として別の伝えを添えています。
そこには、日向が長女を奪ったため、代わりに中女の遠智娘を嫁がせた、とあります。連れ去った者の名も、代わりに嫁いだ娘の名も、はっきり書かれています。
『日本書紀』は、伝えが分かれるときに「一書に曰く」「或本に云わく」と併記します。この件も、二つの書き方が残されたまま伝わっているということです。
婚礼の夜に娘を連れ去った日向は、649年、中大兄に告げます。石川麻呂が謀反を企てている、と。
石川麻呂は弁明せず、造営中の山田寺へ向かい、仏殿の前で自害しました。調べの結果、謀反の証拠は出てきませんでした。
中大兄に嫁いでいた娘は、父の死を聞いて悲しみ、まもなく亡くなります。『日本書紀』は造媛(みやつこひめ)の名で記します。
遠智娘が中大兄とのあいだにもうけたのは、大田皇女、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、建皇子(たけるのみこ)でした。
鸕野讃良皇女は、のちの持統天皇です。
姉の大田皇女は天武天皇に嫁ぎ、大津皇子を産みました。持統天皇の子は草壁皇子。藤原京と律令国家をつくる世代が、ここから出ています。
婚礼の夜の穴を埋めるかたちで嫁いだ娘の血が、その後の皇統に流れたことになります。
『日本書紀』が女性の言葉をそのまま引く場面は、そう多くありません。この記事では、妹が父に語りかける言葉が残されています。
政略結婚の穴埋めでありながら、本人の申し出として書かれている。読み方は分かれます。実際にそう言ったのだとも、後から整えられた筋だとも考えられます。
確かなのは、この縁組が乙巳の変の準備の一部だったこと、そして日向が二度、石川麻呂の人生を狂わせたことです。
山田寺跡は桜井市山田にあります。石川麻呂が造りはじめ、完成を見ないまま死んだ寺の跡です。
乙巳の変の舞台と伝わる飛鳥宮跡は、明日香村岡にあります。
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やまだでらあと
倒れたまま埋もれた回廊が出土した寺院跡。

あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

ならぶんかざいけんきゅうじょ あすかしりょうかん
飛鳥の出土品と山田寺東回廊を展示する、奈文研の博物館。
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