飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/蘇我倉山田石川麻呂 ― 蘇我を討つ側にまわった蘇我氏
公開日
蘇我氏の倉を預かる家に生まれ、入鹿を討つ側にまわり、四年後に謀反を疑われて死にました。その娘たちが、持統天皇と元明天皇の母になります。
蘇我氏といえば、稲目・馬子・蝦夷・入鹿と続く本宗家が知られます。乙巳の変で討たれたのはこの家です。
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)は、同じ蘇我氏でも別の家の人でした。馬子の孫で、父は倉麻呂(くらまろ)。入鹿とは従兄弟にあたります。
名前に入っている「倉」が、この家の性格を示しています。『古語拾遺』は、蘇我氏が斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三つの蔵を管理したと伝えます。倉家は、その倉、つまり朝廷と一族の財を預かる立場に由来するとみられています。
本宗家が政治の前面に立つ一方で、こちらは財政を握っていた。長い名前の「山田」は住んだ土地、「石川」も地名からきています。
皇極天皇4年(645年)6月12日。飛鳥板蓋宮で、三韓の使者が調(みつぎ)を進める儀式が開かれました。乙巳の変です。
石川麻呂の役は、その上表文を読み上げることでした。読んでいるあいだに、入鹿に斬りかかる手はずになっていました。
ところが、実行役の佐伯子麻呂たちが出てきません。『日本書紀』はこう書きます。文はもう終わりに近づき、石川麻呂は汗が流れ、声が乱れ、手が震えた。
入鹿が「なぜ震えるのか」と問います。石川麻呂は「天皇のお側近くにいて、恐れ多いからです」と答えました。
そこへ中大兄皇子が自ら進み出て、入鹿に斬りかかりました。蘇我氏を討つその場に、蘇我氏がいたことになります。
変のあと成立した政権で、石川麻呂は右大臣になりました。左大臣は阿倍内麻呂。新しい政治の中枢に入ったことになります。
娘を中大兄皇子に嫁がせてもいました。討つ側にまわった見返りとしては十分な地位です。
しかし四年後の大化5年(649年)3月、異母弟の蘇我日向(そがのひむか)が中大兄に告げます。石川麻呂が謀反を企てている、と。
石川麻呂は弁明せず、難波を離れて飛鳥の山田寺へ向かいました。641年に自分で造りはじめ、まだ完成していない寺です。
3月25日、仏殿の前で自害しました。妻子ら、あわせて八人が死んだと『日本書紀』は記します。
最期の言葉として伝わるのは、恨みではありませんでした。「願はくは、生生世世(しょうじょうせせ)、君王を怨みじ」。生まれ変わっても、君主を恨むことはしない、という意味です。
遺体と遺品が調べられ、謀反の証拠は出てきませんでした。無実だったと分かり、中大兄は悔いたと『日本書紀』は続けます。讒言した日向は筑紫へ送られました。
中大兄に嫁いでいた娘は、父の死を聞いて悲しみ、まもなく亡くなりました。『日本書紀』は造媛(みやつこひめ)の名で記します。
嘆く中大兄のために、野中川原史満(のなかのかわらのふびとみつ)が歌を詠んで慰めたとあります。二羽そろっていた鴛鴦の片方がいなくなった、という歌でした。
妻を悲しむ天皇の記事は、『日本書紀』のなかでも目立つ部類です。石川麻呂の死が、討った側にも深く残ったことがうかがえます。
ここから先が、この人物を飛鳥史のなかに置き直す部分です。
石川麻呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子とのあいだにもうけたのは、大田皇女、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)、建皇子(たけるのみこ)。
この鸕野讃良皇女が、のちの持統天皇です。
もうひとりの娘・姪娘(めいのいらつめ)の子、阿陪皇女(あへのひめみこ)は元明天皇になります。
つまり石川麻呂は、持統天皇と元明天皇の母方の祖父にあたります。謀反を疑われて死んだ人の血が、その後の皇統に流れているのです。
姉の大田皇女は天武天皇に嫁ぎ、大津皇子を産みました。持統天皇の子は草壁皇子。藤原京と律令国家をつくっていく世代が、この家から出ています。
造営が止まっていた山田寺は、天武天皇の時代に再開され、完成します。
1982年の発掘調査で、倒れたまま土に埋もれていた東面回廊が見つかりました。柱、連子窓、組物が、倒れたときの並びのまま出土したのです。飛鳥時代の木造建築がこれほどまとまって残った例は、ほかにありません。
建てた人は寺の完成を見ていません。それでも、この寺のおかげで七世紀の建築が実物で分かるようになりました。
山田寺跡は桜井市山田にあります。礎石と基壇が整備され、見学は無料です。2026年に「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産として世界遺産に登録されました。
出土した回廊の部材は、すぐ近くの飛鳥資料館で展示されています。
RELATED SPOT

やまだでらあと
倒れたまま埋もれた回廊が出土した寺院跡。

ならぶんかざいけんきゅうじょ あすかしりょうかん
飛鳥の出土品と山田寺東回廊を展示する、奈文研の博物館。

あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

やまだみち
飛鳥を東西に貫いた古代の官道。隋の使者を迎え、山田寺へ通じた道。
RELATED COLUMN