飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/甘樫丘は、いまの甘樫丘なのか
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蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったと『日本書紀』は書きます。ところが掘っても決め手が出てこない。そして甘樫坐神社は、その丘から少し離れた場所に鎮座しています。
644年(皇極3年)の記事に、蘇我蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)が甘樫丘に家を並べ建てた、とあります。蝦夷の家を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の家を谷の宮門(はざまのみかど)と呼んだ、とも書かれます。
宮門(みかど)は本来、天皇の宮に使う言葉です。それを臣下の邸宅に使っている。子どもたちを王子(みこ)と呼ばせた、という記述も続きます。
さらに、家のまわりに城柵をめぐらし、門のわきに武器庫を置き、水を貯えて火事に備えた、とあります。単なる住まいではなく、砦に近いものとして描かれています。
『書紀』は、蘇我氏を討つ側の立場で編まれた書物です。その驕(おご)りを示す場面として、この邸宅は書かれています。
では、いまの甘樫丘を掘れば、その邸宅が出てくるのか。
2005年、甘樫丘の東の麓で7世紀の建物跡と石垣、焼けた土の層が見つかりました。「入鹿の邸宅跡か」と大きく報じられたのを覚えている方もいるかもしれません。
ただし、その後も含めて、『書紀』が描くような規模の遺構は確認されていません。見つかった建物は小ぶりで、城柵や武器庫にあたるものも出ていない。出土した遺物の多くは、7世紀の後半――天武天皇の時代のものと見られています。
蘇我氏の邸宅があったと断定できる材料は、いまのところ出ていません。丘を掘るほどに、この場所は蘇我氏より後の時代のものが濃い、という結果になっています。
もうひとつ、以前から不思議に思われてきたことがあります。
甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)は、いまの甘樫丘の上ではなく、丘から少し離れた豊浦(とゆら)の集落に鎮座しています。
「坐(にいます)」は、その地にいらっしゃる、という意味です。土地の名を冠した神社は、ふつうその土地に建ちます。甘樫を名乗る神社が、甘樫丘から離れているのは、考えてみると筋が通りません。
そこで出てくるのが、甘樫坐神社の裏手にある小高い丘こそ、『書紀』のいう甘樫丘ではないか、という見方です。
この見方に立つと、いくつかのことが同時に収まります。神社が甘樫の名を負ってその場所にあること。いまの甘樫丘から蘇我氏の邸宅が出てこないこと。
そして立地です。豊浦には推古天皇の豊浦宮があり、のちに豊浦寺が建てられました。蘇我氏の拠点がすぐそばにあった一帯です。邸宅を構えるなら、この近くのほうが自然だという考え方もできます。
ただし、これも確かめられた説ではありません。裏づけとなる遺構が出ているわけではなく、地名と立地からの推論です。
古い地名が、時代とともに指す範囲を変えることは珍しくありません。
もとは特定の小さな丘を指していた名が、のちに背後の丘陵全体を指すようになる。あるいは、記録が残らないうちに、別の丘へ移っていく。千三百年のあいだには、どちらも起こりえます。
いまの甘樫丘という呼び名が、いつから今の範囲を指すようになったのか。そこが分かれば話は早いのですが、はっきりしていません。
発掘で決め手が出ない以上、いまの丘が違うと言い切ることもできません。『書紀』の描写そのものが、蘇我氏を悪く見せるための誇張を含んでいる可能性もあります。城柵をめぐらした砦のような邸宅が、はじめから無かったのだとすれば、掘っても出てこないのは当然です。
説はいくつも立ちますが、どれも決め手を欠いたままです。
甘樫丘の展望台からは、飛鳥の宮跡も、大和三山も、藤原宮跡も一度に見渡せます。ここに邸宅を構えるということが何を意味したのか、立ってみるとよく分かります。
そのうえで、丘を降りて豊浦の甘樫坐神社まで歩いてみてください。神社の裏に、こんもりとした丘があります。
境内には盟神探湯(くかたち)の神事が伝わり、いまも毎年4月に行われています。二つの場所の距離を自分の足で測ると、なぜこの神社がここにあるのか、という問いがそのまま実感になります。
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あまかしのおか
飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。

あまかしにいますじんじゃ
盟神探湯の神事が伝わる、甘樫丘のふもとの古社。

とゆらのみやあと
推古天皇が即位した、飛鳥時代のはじまりの宮の跡。
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