飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/難波の堀江はどこか ― 捨てられた仏が善光寺へ
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海に近い大阪の水路か、それとも飛鳥の小さな池か。『日本書紀』が仏像を捨てた場所として記す「難波の堀江」は、二つの候補を持ったまま今日に至っています。
552年(欽明13年)、百済の聖明王から金銅の仏像がもたらされます。仏教が公に伝わった、とされる場面です。
受け入れるかどうかで朝廷は割れました。蘇我稲目(いなめ)は礼拝を願い出て許されます。一方、物部尾輿(もののべのおこし)と中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、国つ神の怒りを招くと反対しました。
やがて疫病が流行ります。物部らはこれを仏罰ではなく仏のせいだと訴え、寺を焼き、仏像を「難波の堀江」に投げ捨てた――『日本書紀』はそう記します。
仏教が伝わった話でありながら、実際に書かれているのは、伝わった仏が捨てられる場面です。
この話には続きがあります。ただし『書紀』ではなく、のちに成立した善光寺縁起のなかにです。
堀江に沈められた仏像は、そのまま失われたのではなかった。信濃の本田善光(ほんだよしみつ)という人物が難波を通りかかったとき、水のなかから仏が呼びかけた。善光はこれを背負って故郷へ帰り、のちに寺を建てて祀った――それが信濃の善光寺である、という筋です。
寺の名は、この人物の名から来ています。本尊は一光三尊阿弥陀如来(いっこうさんぞんあみだにょらい)。誰も見ることのできない絶対秘仏として、いまも守られています。
捨てられた仏が、日本でもっとも広く信仰される秘仏になる。話の運びとしては、これ以上ないほど整っています。
もっとも、二つの話はきれいには重なりません。
『書紀』が記す仏像は釈迦仏です。善光寺の本尊は阿弥陀如来で、しかも三尊が一つの光背を負う形をしています。仏そのものが違う。
善光寺縁起が形を整えたのは、公伝からずっと後のことです。捨てられた仏がどこへ行ったのかという問いに、後の時代が答えを与えた。そう読むのが自然でしょう。
それでも、この縁起は長く語り継がれ、多くの人を信濃へ向かわせました。話が事実かどうかとは別に、話そのものが千数百年の力を持ってきたことになります。
さて、その「難波の堀江」はどこなのか。
堀江とは、掘って通した水路のことです。『日本書紀』には、仁徳天皇が難波に堀江を開いたという記事があります。素直に読めば、いまの大阪市内を流れていた、その水路ということになります。海にも近く、百済からの使いが着く場所としても筋が通ります。
これが一つ目の候補です。
もう一つの候補は、飛鳥にあります。
豊浦(とゆら)の向原寺(こうげんじ)の境内に、難波池(なにわいけ)と呼ばれる小さな池があります。ここに仏像が捨てられたのだ、という言い伝えが残っています。
この場所には理由があります。向原寺が建つのは、蘇我稲目が「向原の家」を清めて寺とした場所です。捨てられた仏がもともと置かれていたのは、まさにここでした。
仏を受け入れた家がここにあり、その仏を捨てた池がすぐそばにある。物語としては、こちらのほうがむしろ収まりがよい。
さらに、この近くからは金銅仏の頭部が見つかっており、寺に伝えられています。
大阪の堀江を採れば、海に近いという地理が説明できます。ただし、なぜわざわざ飛鳥から難波まで運んで捨てたのか、という問いが残ります。
飛鳥の池を採れば、仏が置かれていた場所のすぐそばで完結します。ただし「堀江」という言葉が、内陸の小さな池に使われるのは不自然です。
『書紀』は場所を特定していません。どちらの読み方も成り立ち、どちらにも弱いところがある。決め手は出ていません。
ひとつ言えるのは、飛鳥の側にこの伝承が残り、池に名が付き、いまも守られているという事実です。話がここで生まれたのか、あとからここへ結びついたのかは分かりません。それでも、千数百年のあいだ語られてきたこと自体が、この土地の記憶のかたちです。
難波池は向原寺の境内にあります。池の中央に小さな祠が建ち、石橋が架けられています。
同じ境内の下には豊浦寺の講堂の基壇が、さらにその下には豊浦宮の遺構が重なっています。仏を受け入れるかどうかで国が割れた場所が、そのまま日本最初の尼寺になった。
東隣は豊浦宮跡、北は甘樫丘のふもとです。歩いて回れる範囲に、飛鳥のはじまりが集まっています。
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こうげんじ
日本最初の尼寺・豊浦寺の跡に建つ寺。仏教伝来の伝承が残る難波池も。

とゆらのみやあと
推古天皇が即位した、飛鳥時代のはじまりの宮の跡。

あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。
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