飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/氏の寺と、国の寺 ― 飛鳥に建った寺を読み分ける
公開日 /更新日
飛鳥寺、豊浦寺、山田寺、川原寺、大官大寺、本薬師寺。誰が、何のために建てたのか。そこを押さえると、寺の跡の見え方が変わります。
この国で最初の本格的な寺院は、飛鳥に建ちました。飛鳥寺です。法興寺とも呼ばれます。
発願したのは蘇我馬子。588年に造営が始まり、596年に完成しました。このとき百済から、寺を建てる工人、瓦を焼く博士、塔の相輪を造る博士、絵師が送られてきています。技術ごと輸入したことになります。
伽藍の形も独特でした。塔を中央に置き、その東・西・北の三方に金堂を配する一塔三金堂。国内にほかに例がありません。
屋根に瓦が葺かれたのも、この寺が最初です。それまでの建物はすべて茅か板でした。村のどこからでも見える、光る屋根の巨大な建物が突然現れたことになります。
飛鳥寺は、蘇我氏が自分の財で建て、自分たちのために営んだ寺です。こうした寺を氏寺(うじでら)といいます。
氏の祖先を弔い、氏の繁栄を祈り、氏にゆかりのある僧が入る。そして何より、氏の力を目に見える形で示すものでした。
飛鳥に建った寺の多くが、この性格を持っています。
豊浦寺は、推古天皇の豊浦宮の跡地に蘇我氏が営んだ寺で、日本で最初の尼寺とされます。いまは向原寺の境内の下に、その基壇が残っています。
山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂が641年に造りはじめた寺です。橘寺は聖徳太子ゆかりの寺として伝わります。
檜隈寺は、渡来してきた東漢(やまとのあや)氏の寺でした。いまは礎石と十三重石塔が残り、境内に於美阿志神社が建っています。
有力な氏族は、それぞれ自分の寺を持ちました。どの氏がどこに寺を建てたかを見れば、その頃の勢力図がそのまま読めます。
寺が建ちはじめた時期は、古墳が小さくなっていく時期と重なります。
それまで、氏族は競うように墓を造っていました。人手と財を注ぎ、大きさで力を示す。その注ぎ先が、寺へ移ります。
塔が建ち、瓦が葺かれ、金堂に金色の仏が据えられる。示す装置としては、墳丘よりよく働きます。しかも寺は、祖先を弔い続ける場でもありました。
死者を祀る場が、墓から寺へ移ったということです。
氏寺の性格がよく分かるのが山田寺です。
蘇我倉山田石川麻呂は、乙巳の変で中大兄皇子の側についた人物です。娘を中大兄皇子に嫁がせ、右大臣になりました。641年に自分の寺を造りはじめます。
ところが649年、謀反を企てているという讒言を受け、この寺で自害しました。訴えは事実無根だったとされ、中大兄皇子は後に悔いたと『日本書紀』は記します。
寺の造営はその後も続きました。685年、天武天皇の時代になって本尊の丈六仏が開眼します。着工から44年です。
この仏の頭部だけが、いまも残っています。鎌倉時代に興福寺へ移され、その後行方が分からなくなり、1937年に東金堂の須弥壇の下から見つかりました。興福寺の仏頭として知られるものです。
1982年の発掘では、東回廊が倒れた姿のまま出土しました。現存する木造建築の部材としては最古のものです。
一方で、性格の違う寺が現れます。
舒明天皇が639年に建てはじめた百済大寺です。天皇が建てた最初の寺とされ、ここから官寺(かんじ)の歴史が始まります。
氏寺が氏のためのものであるのに対し、官寺は国のための寺です。国家の財で造り、国家が維持し、国家の安寧を祈る。入る僧も、国が認めた僧になります。
百済大寺は、天武天皇の時代に高市大寺と呼ばれ、677年に大官大寺と改称されました。文武天皇の時代には藤原京の一角に新たに造営され、九重塔が建てられたと伝わります。いま明日香村の北端に残る大官大寺跡が、その跡地です。
「大官」の名がそのまま、この寺の立場を表しています。
川原寺は、斉明天皇が一時期宮とした川原宮の跡地に建てられました。斉明天皇の追善のために天智天皇が建てたとする見方が有力です。
塔を東に、金堂を二つ配する一塔二金堂で、この形は川原寺式と呼ばれます。飛鳥寺・大官大寺・本薬師寺と並んで飛鳥四大寺に数えられました。
本薬師寺は、天武天皇が皇后の病気平癒を願って680年に発願した寺です。その皇后がのちの持統天皇で、天武の没後に造営を引き継ぎました。妻のために建てた寺を、その妻が完成させたことになります。
どちらも、特定の氏のためではなく、天皇家と国のために建てられた寺です。
氏寺と官寺の区別が制度としてはっきりするのは、天武天皇の時代です。
680年、天皇は詔を出して、官が維持する寺をわずかな数に限り、それ以外は官が関与しないと定めました。国が面倒を見る寺と、氏が自分で持つ寺の線が、ここで引かれます。
同じころ、僧尼を管理する仕組みも整えられていきます。誰が僧になれるのか、どの寺に属するのかを国が決める。信仰そのものが制度のなかに入りました。
氏族が競って寺を建てる時代から、国が寺を配置する時代へ。古墳の縮小や、公地公民の原則と同じ方向の変化です。
建物の並べ方を見ると、重心の移動が分かります。
飛鳥寺は塔を中央に置き、三方から金堂が囲みました。塔が主役です。塔には仏の舎利が納められるので、当然といえば当然でした。
川原寺では塔が東へ寄り、金堂が二つになります。本薬師寺では、金堂を中心に塔が二つ左右に立つ形になりました。塔は主役の位置から降り、金堂と仏像が中心に来ます。
舎利を拝む寺から、仏像を拝む寺へ。百年のあいだに、寺の中身が入れ替わっていきました。
710年、平城京への遷都。寺も移りました。
飛鳥寺は元興寺となり、飛鳥に残ったほうは本元興寺と呼ばれます。大官大寺は大安寺に、本薬師寺は薬師寺になりました。
移らなかった寺もあります。川原寺は飛鳥に残り、山田寺も残りました。どちらもやがて衰え、いまは礎石と基壇を残すだけです。
移った寺は奈良の町なかで今日まで続き、残った寺は野に還った。都が動くというのは、そういうことでもありました。
いま訪ねられる寺の跡を、性格で分けてみます。
氏の寺として、飛鳥寺(蘇我馬子)、向原寺の下の豊浦寺(蘇我氏)、山田寺跡(蘇我倉山田石川麻呂)、檜隈寺跡(東漢氏)、橘寺。
国の寺として、川原寺跡、大官大寺跡、本薬師寺跡。
飛鳥寺だけは、いまも本堂に飛鳥大仏が座っています。ほかはすべて礎石か、田のなかの平地です。
礎石の並びを見るとき、それが誰の財で据えられ、誰のために祈る場所だったのかを思い浮かべると、同じ石でも違って見えてきます。