飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/大官大寺跡
だいかんだいじあと
九重塔を備えた、飛鳥・藤原で最大の国家寺院跡。
藤原宮の東南、条坊のなかに計画的に配置された国家寺院の跡です。「飛鳥・藤原」の範囲では最大の寺院でした。
いまは香具山の南麓の水田のなかに、九重塔と金堂の基壇跡がわずかに残るだけです。1921年に国の史跡に指定されました。
この寺の象徴が九重塔でした。九層の塔は唐・百済・新羅・高句麗といった東アジア各国に共通する、国家のシンボルです。塔そのものは残っていませんが、基壇の規模から九重であったと推定されています。
塔を建てることは、国としての格を示す行為でした。飛鳥寺が氏族の寺、川原寺や山田寺が天皇や有力者の発願であったのに対し、大官大寺は国が営む寺として位置づけられます。
『日本書紀』や『大安寺伽藍縁起』では、この寺は「だいかんだいじ」、あるいは「おおつかさのおおてら」と呼ばれています。
記録をたどると、百済大寺(くだらのおおでら)から高市大寺(たけちのおおでら)、そして大官大寺へと、場所を移しながら 名を変えてきたことが分かります。ただし高市大寺については、はっきりしたことが分かっていません。
昭和49(1974)年から始まった発掘調査により、中門・金堂・講堂が南北に並ぶ伽藍配置が明らかになりました。中門と金堂を回廊がつなぎ、その回廊に囲まれた区画の東寄りに塔が建っていました。
回廊に囲まれた範囲だけで東西144メートル、南北195メートル。のちの東大寺の当初の回廊と同じ規模にあたります。名前のとおり、飛鳥で最大の寺院でした。
711年、大火災によって金堂・講堂・塔・中門・回廊など主要な伽藍が焼失します。調査の結果、この時点で完成していたのは金堂と講堂だけで、塔と中門はまだ建設中であったとみられています。
国家の威信をかけた寺が、完成を見ないまま焼けたことになります。
710年の平城京遷都にともない、大官大寺も都へ移されました。奈良の大安寺がそれで、いまも法灯を継いでいます。
聖武天皇によって東大寺が建立されるまで、大安寺は国家の筆頭寺院の地位を占めていました。
2026年7月26日、「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産のひとつとして世界遺産に登録されました。
水田のなかの基壇跡を見ることになります。「大官大寺塔址地」と刻まれた石柱と、伽藍配置図を載せた説明板が立っているほかは何もありません。藤原宮跡から東へ歩いて行ける距離です。
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