飛鳥の明日香の里を(明日香村)/散策スポット/石神遺跡
いしがみいせき
須弥山石が出土した、斉明天皇の饗宴の場。
飛鳥寺の旧寺域に接する西北一帯が、石神遺跡と呼ばれています。すぐ南は飛鳥水落遺跡で、両者は通路でつながっていたことが分かっています。
地表に見えるものはほとんどありません。発掘後は埋め戻され、いまは田と草地がひろがるばかりです。道ばたに説明板が置かれ、ここが遺跡であることを伝えています。
この場所が注目されたのは、明治35〜36年(1902〜1903年)のことです。田の中から、須弥山石(しゅみせんせき)と石人像(せきじんぞう)という二つの石造物が掘り出されました。
どちらも内部がくり抜かれ、水を噴き上げる仕掛けを備えていました。噴水の機能を持つ飛鳥時代の石造物は、ほかに例がありません。
須弥山とは、仏教の世界観で世界の中心にそびえるとされる山です。『日本書紀』には、斉明天皇が須弥山をかたどったものを造り、蝦夷(えみし)や外国からの使者をもてなしたという記事が何度か出てきます。文献の記述と実物が結びつく、数少ない例です。
二つの石造物は、いまは飛鳥資料館(奈良文化財研究所)に展示されています。実物のほか、四段に復元した姿も見ることができます。
本格的な調査が始まったのは昭和56年(1981年)です。以後も継続して調査が行われ、斉明天皇のころ(655〜667年)を中心に、各時代の遺構が複雑に重なっていることが分かってきました。
大きくは、斉明朝・天武朝・藤原宮期の三つの時期に分けられます。同じ場所が、飛鳥の都のあいだじゅう使われ続けたことになります。
斉明天皇のころの遺構は、東西にのびる大垣と長廊状の建物によって、東西二つの区画に分けられていました。
西側の区画では、廊を備えた大規模な建物が見つかっています。日常的に使う空間だったと考えられ、通路によって南の水落遺跡とつながっていました。
東側の区画は、井戸を中心に構成されています。その北には四角く囲まれた掘立柱建物群が並び、石組の溝が縦横に走っていました。建物のまわりや空き地は石敷きだったと推定されています。
石を敷きつめた広場、噴水を備えた石造物、区画された建物群。これらを合わせて、斉明朝の石神遺跡は饗宴のための施設の一部だったと考えられています。
蝦夷や隼人、あるいは海の向こうから来た使者を迎え、服属の儀礼を行い、酒食をふるまう。飛鳥の迎賓館とも呼ばれるゆえんです。
すぐ南の水落遺跡には、同じ斉明天皇の時代に日本初の水時計が置かれていました。時を告げる施設と、客をもてなす施設が、通路でつながって隣り合っていたことになります。
近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「飛鳥」下車すぐ。水落遺跡・飛鳥寺・甘樫丘のいずれからも歩いてすぐの場所です。
見学は無料で、柵などもありません。ただし遺構は埋め戻されているため、見えるのは説明板と、遺構の位置を示すわずかな表示だけです。出土した石造物を見たい場合は、北へ数分の飛鳥資料館へ足を運んでください。
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