飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/藤原京はなぜ十六年で捨てられたのか
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日本で初めての本格的な都城が、わずか十六年で放棄されました。水はけの悪さ、宮の置き方、そして三十年ぶりに派遣された遣唐使が持ち帰ったもの。いくつかの説が語られています。
694年(持統8年)、都が藤原京へ移されました。飛鳥の宮のように代替わりごとに移るのではなく、碁盤の目に区画された恒久の都。日本で初めての本格的な都城です。
ところが710年(和銅3年)、都は平城京へ移ります。持統・文武・元明の三代、わずか十六年でした。
これだけの規模を築いておきながら、なぜそれほど早く捨てられたのか。決め手となる記録は残っておらず、いくつかの説が語られています。
藤原京の特徴は、宮の位置にあります。天皇の住まいと政務の場である宮が、京のほぼ中央に置かれました。
これは中国の古い理念にならったものと考えられています。『周礼(しゅらい)』の考工記が説く、王の宮を中央に据える都のかたちです。書物のなかの理想を、そのまま土地に写し取ったことになります。
平城京以降の都は、いずれも宮を北の端に置きます。藤原京だけが例外です。
有力な説のひとつが、排水の問題です。
藤原京が置かれたのは、大和三山に囲まれた低い土地でした。周囲より低いところに都を築いたため、水がうまく抜けません。
そこへ、宮を中央に置いた構造が重なります。都に住む人々の生活排水は、地形にしたがって低いほうへ流れます。その先に宮があった、ということになる。
当時の都には、数万の人が暮らしていたと見られています。し尿を含む汚水が流れ着く先に、天皇の住まいがあったことになります。
そのために疫病が流行したのではないか、という説もあります。『続日本紀』には藤原京の時代に疫病の記事が見えますが、原因が排水にあったと書かれているわけではありません。あくまで、都の構造と地形から推し量られた見方です。
もうひとつ、外から来た説があります。
663年の白村江の戦いで、日本は唐・新羅の連合軍に敗れます。以後、唐との行き来は途絶えました。669年を最後に、遣唐使は送られていません。
その間、日本が親しくしていたのは新羅です。唐と新羅もやがて対立し、日本は新羅を通じて大陸の文物を受け取っていました。
藤原京が営まれていた702年(大宝2年)、三十年以上の空白を置いて遣唐使が再開されます。粟田真人(あわたのまひと)が率いた一行です。
一行は704年に帰国しました。そして708年、平城京への遷都が命じられます。
この四年の間隔に、意味を見る説があります。実際の唐の都を見た人々が、藤原京の形は違うと報告したのではないか、というものです。
藤原京が手本にしたとされるのは、書物を通じて伝わった理念でした。使者が目にしたのは、宮城を北の端に据え、そこから南へ大路が伸びる実際の都です。真ん中に宮を置く形は、すでに大陸のどこにもなかった。
この説にも確かな裏づけはありません。ただ、遷都のあとに造られた平城京が、宮を北端に置く形をとっていることは事実です。
排水の説も、遣唐使の説も、どちらか一方が正しいというものではありません。両方が重なっていた、と考えることもできます。
住みにくい土地であることは、住んでみて分かります。都の形が古いことは、外を見て分かります。そのどちらもが同じ時期に突きつけられたのだとすれば、十六年という短さも理解できます。
言い換えれば、藤原京は「試して分かった」都でした。日本が初めて都城というものを自前で造り、その経験を踏まえて平城京が設計された。捨てられたことそのものが、次への手順だったとも言えます。
藤原宮跡には、大極殿の基壇と柱の位置が示されています。まわりに建物はなく、大和三山を一度に見渡せます。
ここに立つと、三山に囲まれた盆地の底にいることが分かります。水がどちらへ流れるかも、地形を見れば見当がつきます。排水の説を確かめに行く場所として、これ以上のところはありません。
同じ藤原京のなかには、本薬師寺跡や大官大寺跡も残っています。あわせて歩くと、十六年で捨てられた都の広さが実感できます。
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ふじわらきゅうせき
日本初の本格的な都城の中枢。四季の花畑でも知られる。

もとやくしじあと
礎石が当時の位置に残る、双塔式伽藍の国家寺院跡。

だいかんだいじあと
九重塔を備えた、飛鳥・藤原で最大の国家寺院跡。
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