飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/本家は、経典どおりに作っていなかった ― 長安から見た藤原京
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藤原京は中国の古典『周礼』が説くとおり、宮を都の真ん中に置きました。ところが手本にしたはずの長安は、そうなっていません。なぜ本家が経典を外したのかを追うと、隋唐という王朝の素性が見えてきます。
694年に営まれた藤原京は、宮を都のほぼ中央に置きました。中国の古典『周礼(しゅらい)』の考工記が説く、王の宮を中央に据える都のかたちです。
平城京から先の都は、いずれも宮を北の端に置きます。藤原京だけが例外です。
書物の理想を土地に写し取った、と言えば聞こえはいい。ただ、話はもう少しややこしくなります。手本にしたはずの中国の都が、そのとおりに作られていなかったからです。
『周礼』考工記が描く都は、一辺が九里、およそ4.5キロメートルの正方形。各辺に三つずつ門を開き、中央に王宮を置きます。
整った図です。ただ、王宮が真ん中にあると都のなかを人が横切れません。交通が成り立たないのです。
そのため、この図のとおりの都は隋より前に一度も建設されませんでした。経典に書かれてはいるが、誰も実現していない。そういう理想でした。
私たちが「長安」と呼ぶ都は、正しくは大興城といいます。隋の初代皇帝・楊堅(ようけん/文帝)が建てました。隋は581年に建国し、589年に中国を統一します。618年に隋が滅びたあと、唐がこの都をそのまま引き継ぎました。
その大興城は、宮城を一番北に置いています。中央ではありません。
なぜ経典を外したのか。ここに説が分かれます。
ひとつは、騎馬遊牧民の習慣が都市計画に出たとする見方です。故・杉山正明が唱えました。
遊牧民が宿営するとき、大ハーンのゲル(テント)は一番北に張られます。その配置がそのまま都に持ち込まれたのではないか、というものです。
都の北側に禁苑(きんえん)という広大な皇室専用の狩場が設けられ、皇帝が宮城から直接馬で入って狩りをしていたことも、この見方を支えます。
もうひとつは、都市プランナーの独創とする見方です。宇文愷(うぶんがい)という、鮮卑(せんぴ)の血を引く宮廷デザイナーが設計を担いました。妹尾龍彦が説いています。
宇文愷は、宮城と役所街を北にまとめ、そこから南へ幅100メートルを超える朱雀大街を通しました。この一本を世界の中心軸として、東西を対称に組み立てたのです。市場も、東に仏教の大興善寺・西に道教の玄都観という宗教施設も、左右に振り分けられました。
狙いは儀礼にありました。皇帝が北の宮城を出て、南の郊外にある天を祀る壇(円丘)まで行列する。その姿を、都じゅうの民衆に長く見せるための舞台として都市が設計されたという読み方です。都そのものが、権威を見せる劇場だったことになります。
関西大学の講演でこの二つを聞いたとき、講演者は後者により説得力があるとしていました。前者は魅力的だが、隋がめざした普遍的な統治のしかたとは部分的に食い違う、というのがその理由です。
どちらの説を採るにせよ、背景に共通することがあります。隋と唐を建てた人たちが、漢民族の文化をまっすぐ受け継いだ人々ではなかった、という点です。
北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏。姓は違いますが、いずれも北方の守りに置かれた武川鎮(ぶせんちん)という軍事拠点の出身で、婚姻で結び合った一つの集団でした。楊堅の妻の義理の兄弟が北周の皇帝、甥が唐を建てた李淵にあたります。
この一連の王朝を、北魏の拓跋(たくばつ)氏から続く広い意味での同じ系譜と見る捉え方があります。北方にいたトルコ系の遊牧民は、唐のことを「タグガチ」と呼んでいました。「拓跋」が音を変えたものです。彼らは唐を、北魏の後継者と見ていたことになります。
ここで話が反転します。
統一した隋は、出自の違う人々を抱えた複合的な国家でした。まとめるには、誰もが納得する原理が要ります。隋が用意したのは、律令という法体系、三省六部・九寺という分かりやすい数で組んだ官僚機構、皇帝の権威と結びつけた仏教、そして都市のかたちでした。
つまり、騎馬遊牧民の流れをくむ皇帝が、儒教の経典に描かれた理想の都を建てること自体が、自分こそ中国を治める正統な王朝だという証明になったのです。誰も実現できなかった理想を実現してみせる、という形で。
ただし、そっくりそのままではありませんでした。王宮は中央ではなく北に置き、南へ伸びる大路を軸にした。経典を看板として使いながら、中身は自分たちの都合で組み替えていたことになります。
藤原京を造った人たちが持っていたのは、書物でした。663年の白村江の戦いのあと、唐との行き来は途絶えています。実物を見た人が、長いあいだいなかったのです。
702年、三十年以上の空白を置いて遣唐使が再開され、粟田真人(あわたのまひと)の一行が704年に帰国します。そして708年、平城京への遷都が命じられました。
実物を見た人が帰ってきてから、都の形が変わった。平城京は宮を北の端に置いています。長安と同じ配置です。
経典どおりに作ったのが日本で、経典を外したのが本家だった。その食い違いに気づいたとき、日本は本家のほうへ合わせました。藤原京がわずか十六年で捨てられた理由のひとつに、この説が挙げられています。
藤原宮跡には、大極殿の基壇と柱の位置が示されています。まわりに建物はなく、大和三山を一度に見渡せます。
ここが京の真ん中だった、と思いながら立つと、周囲に均等に広がっていた都の大きさが想像できます。書物に描かれた理想を、そのまま土地に写し取ろうとした跡です。
その理想が、本家では実現されていなかった。知らないまま作り、あとで知って作り直した。日本の都づくりは、そこから始まりました。
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