飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/もうひとつの「かしはら」 ― 御所市に残る神武天皇社
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神武天皇が即位した橿原。いまは橿原市の畝傍山麓とされています。御所市の柏原(かしはら)にも、同じ伝承が残っています。
奈良県御所市に柏原(かしはら)という集落があります。その一角に、神武天皇社が鎮座しています。
祭神は神武天皇。神武天皇を主祭神とする神社は、全国でも数が限られます。
この地が神武天皇の即位した宮の跡である、という伝承が古くから伝わってきました。
この伝承は、何もないところから出てきたわけではありません。
『日本書紀』の神武天皇31年の条に、天皇が腋上の嗛間丘(わきがみのほほまのおか)に登って国を見渡した、という記事があります。
そのとき天皇は「蜻蛉(あきづ)が交尾しているような形だ」と語り、ここから秋津洲(あきづしま)という国の名が生まれた、と『日本書紀』は続けます。日本という国の呼び名が生まれた場面です。
腋上は御所市の地名です。嗛間丘は、市内の本馬丘(ほんまがおか)にあてる見方があります。つまり御所市は、『日本書紀』のなかで神武天皇が姿を見せる土地なのです。
一方、『日本書紀』は神武天皇の宮を「畝傍山の東南、橿原の地」と記します。
明治23年(1890年)、その記述にもとづいて、畝傍山の東南麓に橿原神宮が創建されました。民間からの請願を明治天皇が裁可したものです。
神武天皇を初代とする国のかたちが、あらためて形にされていく時期でした。宮の跡がどこかということは、このとき現実の問題になります。
ここから先は、御所市柏原に伝わる話です。
自分たちの土地が神武天皇の宮跡と認められれば、田畑も家も召し上げられてしまう。そう恐れた村の人たちが、証拠となるものを焼いてしまった、というのです。
結果として宮跡は畝傍山のふもとに定まり、柏原には社だけが残りました。
この話は地元の言い伝えで、裏づける記録があるわけではありません。何がどう焼かれたのかも伝わっていません。
そもそも、神武天皇が実在したかどうかから議論があります。『日本書紀』の紀年をそのまま受け取れば即位は紀元前660年で、考古学の描く弥生時代の姿とは合いません。
宮の所在を決める材料は、はじめから乏しいのです。畝傍山の東南という記述と、二つの「かしはら」という地名。判断の根拠は、ほとんどそれだけです。
確かなのは、明治にどちらかを選ぶ必要が生まれ、片方が選ばれたということです。そして選ばれなかった側にも、社と伝承が残ったということです。
神武天皇社は御所市柏原にあります。集落のなかの小さな社で、社殿の前に石灯籠が並びます。明日香村からは車で20分ほどです。
橿原神宮は橿原市久米町、近鉄橿原神宮前駅から歩いてすぐです。二つの「かしはら」を続けて訪ねると、距離にして10キロほどしか離れていないことが分かります。
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