飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/諸説あり

「春過ぎて夏来るらし」で始まる、持統天皇の香具山の歌。初夏の景色を詠んだ一首として親しまれていますが、そこに持統天皇自身の野心が出ているという読み方もあります。

大海人皇子とのあいだに娘をもうけ、のちに天智天皇のもとへ移ったとされる額田王。蒲生野で二人が詠み交わした歌には、まだ大海人を思っていた心が出ているのではないか。そう読む説を紹介します。

鎌倉時代の落雷で、飛鳥寺は焼けました。残ったのは「仏の頭と手」だけ――そう伝える記録と、2012年・2016年のX線の調査は、同じ仏について違うことを言っています。

飛鳥大仏から薬師寺の薬師三尊まで、およそ百年。仏像の顔つきは、つくらせる人と、海の向こうとの行き来しだいで、大きく変わりました。

679年、天武天皇は吉野で六人の皇子に、争わないことを誓わせました。守られなかったことはよく知られています。ただ、一人ずつその後を追っていくと、殺し合いだけでは終わっていないことが見えてきます。

飛鳥のいちばん奥から山に入り、尾根をひとつ越えると吉野です。この道を、大海人皇子は追われるようにして越えました。同じ道を、持統天皇は在位のあいだに三十回以上も往復しています。

壬申の乱で軍を預かったのは、十九歳の長男でした。母の身分が低く、位からは遠いとされた人です。ただ、その死の扱いは、皇子のものにしては大きすぎました。

律令国家を仕上げた女帝として、夫の天武天皇と一続きに語られます。ただ、彼女は天智天皇の娘でもありました。父の跡を継ぐという意識のほうが強かったのではないか、と考えてみます。