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飛鳥大仏は、どこまでが1400年前のものか

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鎌倉時代の落雷で、飛鳥寺は焼けました。残ったのは「仏の頭と手」だけ――そう伝える記録と、2012年・2016年のX線の調査は、同じ仏について違うことを言っています。

国宝ではない、日本最古の仏

飛鳥寺の本堂に座す飛鳥大仏。右手を上げた銅造の釈迦如来坐像
飛鳥大仏。本堂では、顔と体を間近に見比べられる

飛鳥寺の本堂に、黒ずんだ銅の仏が座っています。飛鳥大仏と呼ばれる釈迦如来坐像で、『日本書紀』によれば606年、鞍作鳥(止利仏師)が造りました。高さはおよそ2.75メートル。年の分かる仏像としては、この国でいちばん古いものです。

それでいて、国宝ではなく重要文化財です。理由として挙げられてきたのが、造られた当初の部分がわずかしか残っておらず、大部分は後の時代の補修だ、という見方でした。

では、実際にどこまでが1400年前のものなのか。この問いには、100年近く研究者が取り組んできましたが、まだ答えが一つに定まっていません。

1196年、雷が落ちた

話の出発点は、鎌倉時代の初めの火災です。

1238年ごろにまとめられた『聖徳太子伝私記』は、建久7年(1196年)6月に雷火で焼けたと記します。別の記録には、寺も塔も残らず焼けた、ただ仏の頭と手は残った、という一節があります。

頭と手だけが残った。この短い一文が、その後の見立ての土台になりました。

目で見分けてきた100年

近代の研究者は、像の表面を見て、当初と補修とを分けようとしてきました。

1936年、石田茂作は材質の違いで像を四つに分けています。磨きのかかった銅の部分(顔、左耳、右手の人差し指から薬指)、磨かれていない鋳放しの銅の部分(背中、左腕、胸のあたり)、銅の上に粘土で衣のしわを作って墨を塗った部分(膝、右の掌、螺髪)、木を差し込んで墨を塗った部分(左手)。このうち、磨きのある銅を当初としました。

その後も見立ては少しずつ違います。額と目のあたり、左耳、右手の中央の3本の指を当初とするもの。生え際の線や、眉から鼻筋へ続く稜線、まぶたの刻線を当初とするもの。左の掌や左足の裏にも当初の銅が残るとするもの。頭髪の部分にかなり当初のものが残るとするもの。

細部の差はあっても、大きな流れは同じでした。当初のまま残るのは目のまわりと右手の指先くらいで、ほかは焼けたあとに鋳直された。これが長く通説になります。

2012年、X線が測った

この通説に、数値で異を唱えたのが早稲田大学のチームです。2012年7月、持ち運べるX線の分析装置を本堂に持ち込み、像の表面の金属の成分を測りました。

測ったのは、当初とされてきた左の鼻筋と右手の人差し指、補修とされてきた鼻の下、左の襟、左の膝の上です。結果は、どこもほとんど同じ成分でした。

さらに、補修とされてきた左膝からは、強い熱を受けたときにできやすい酸化銅が多く見つかりました。補修の部分なら、火災のあとに造られたはずです。そこに火を浴びた跡がある。だとすれば、膝も火災のときにすでにそこにあったことになる。

チームは同じ年の10月、仏身のほとんどが飛鳥時代の当初のままである可能性が高い、と発表しました。それまでの見方を大きく覆す内容でした。

2016年、足場を組んで測り直した

この発表を確かめるため、2015年と2016年に、より大がかりな調査が行われます。大阪大学を中心に、韓国国立中央博物館、東京文化財研究所、奈良国立博物館などが加わりました。2016年6月には大仏のまわりに足場が組まれ、頭のてっぺんまで手が届くようになりました。

金属の成分を測った場所は、あわせて137か所です。

結果の一つ目は、早稲田の見立てを支える根拠の一つを弱めるものでした。熱でできる酸化銅の割合は、当初とされる場所でも補修とされる場所でも、はっきりした差が出なかったのです。同じ破片の同じ面でも、場所によって割合が違った。酸化銅の多い少ないから、火を浴びたかどうかを判断するのは慎重であるべきだ、と報告はまとめています。

同じ数字を、どう読むか

二つ目は、金属の成分そのものです。顔と体の成分は、こちらの調査でもよく似ていました。銅、錫、鉛の割合はほとんど一致します。ここまでは早稲田の結果と同じです。

ただ、細かく見ると違いがありました。鉛は顔のほうがわずかに多く、ヒ素と鉄は体のほうがわずかに多い。三つの元素の比を図に落とすと、顔と体ははっきり別のまとまりに分かれました。

報告は、これを次のように読んでいます。火災で溶けた銅を集め、それを使って体を鋳直した。だから成分がよく似ている。溶かし直すときに土の鉄分が混じり、鉛の一部は熱で飛んだ。

成分がほぼ同じという同じ事実から、早稲田は「同じときに造られた」と読み、2016年の調査は「同じ銅を使い直した」と読んだことになります。どちらの読み方も、数字だけでは否定できません。

2016年の調査がもう一つ重く見たのは、造りの質です。当初とされてきた目のまわりや右手の指と、体の部分とでは、仕上げの出来がはっきり違う。数字の小さな差は、その違いを映している可能性がある、としています。

広がった「当初」

そのうえで、2016年の調査は、当初の部分が通説より広いことも示しています。

顔の当初の部分は、目のまわりだけでなく、頬や顎、左耳の付け根のあたりまで広がる可能性があります。右手は、体とは成分が異なり、別に造られたとみられます。当初の部分も、人差し指から薬指だけではなく、親指の付け根、指のあいだの水かき、小指の付け根、掌の上半分に及ぶとされました。

頭髪の部分も、成分では区別がつかなかったものの、造り方から見ると、頭頂の盛り上がり(肉髻)の前のほう4分の3ほどと、額の生え際のあたりが当初で、そこに植えられた螺髪も多くが当初のものとみられています。

体は補修と考えうる。しかし顔と右手と頭は、これまで思われていたよりずっと多くが残っている。2016年の調査の結論は、おおよそそういうものです。

「頭と手が残った」をどう読むか

そもそもの出発点だった記録にも、問いは向けられています。

仏の頭と手は残った、という一節は、本当に飛鳥大仏のことを言っているのか。記録の前後を読み直すと、別の仏のことを指しているのではないか、と考える研究者もいます。もしそうなら、「頭と手しか残らなかった」という前提そのものがなくなります。

記録を読む人、像を見る人、成分を測る人。それぞれの方法で、同じ仏に向き合ってきました。どこまでが当初かは、いまも一つの答えにまとまっていません。

本堂で見るところ

飛鳥寺の山門と「飛鳥大佛」と刻まれた石標
飛鳥寺の山門。大仏は、創建のときと同じ場所に座っているとされる

飛鳥寺の本堂では、大仏を間近に見ることができます。

まず顔です。額から目のまわりにかけての張りのある面と、鼻から下や頬とで、肌の質感が違って見えるかどうか。次に右手。上げた右手の指先と掌の仕上げ。そして体。衣のしわや膝のあたりと、顔とを見比べてみてください。継ぎ目のように見える線も、あちこちに走っています。

どこが1400年前のもので、どこがそうでないのか。研究者の答えは分かれていますが、見る側も自分の目で確かめることができます。

そしてどの説をとっても、この仏は、造られた場所に座り続けてきました。焼けて、補われ、継がれながら、1400年。そのこと自体は、どの調査も疑っていません。

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