飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/異国の仏が、この国の顔になるまで ― 飛鳥・藤原の仏像

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異国の仏が、この国の顔になるまで ― 飛鳥・藤原の仏像

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飛鳥大仏から薬師寺の薬師三尊まで、およそ百年。仏像の顔つきは、つくらせる人と、海の向こうとの行き来しだいで、大きく変わりました。

最初の仏は、捨てられた

6世紀の半ば、百済の聖明王から金銅の釈迦仏と経典が届きます。仏教が公に伝わった場面です。年は552年とも538年ともされ、どちらの説にも史料があります。

この仏を拝むかどうかで、朝廷は割れました。蘇我稲目は、まわりの国がみな拝んでいるのだから倣うべきだと言い、物部尾輿は、国の神々の怒りを招くと反対します。欽明天皇は、ためしに稲目に仏を預けて拝ませました。

まもなく疫病がはやります。物部側はこれを神の怒りだとして寺を焼き、仏像を難波の堀江に捨てた、と『日本書紀』は記します。この国に来た最初の仏像は、拝まれるより先に捨てられたことになります。

争いは子の代に持ち越されました。587年、蘇我馬子と物部守屋が戦い、蘇我側が勝ちます。馬子の側についた厩戸皇子(聖徳太子)は四天王寺を、馬子は飛鳥寺を建てることになりました。

飛鳥大仏 ― 黒い顔の理由

飛鳥寺の本堂に座す飛鳥大仏。右手を上げた銅造の釈迦如来坐像
飛鳥寺の飛鳥大仏。造られた場所に、いまも座っている

飛鳥寺の本尊が、飛鳥大仏と呼ばれる銅造の釈迦如来坐像です。『日本書紀』によれば、推古14年(606年)に完成しました。寺に伝わる銘文には609年とあり、年は二つ伝わっています。

造ったのは鞍作鳥(くらつくりのとり)。止利仏師とも書かれる渡来系の工人です。丈六と呼ばれる大きさの仏で、坐った姿で高さはおよそ2.75メートルあります。

『書紀』には、仏が金堂の戸より高く、中へ入れられなかったという話が載っています。戸を壊すしかないと皆が言うなか、鳥の工夫で戸を壊さずに納めることができた。この功で鳥は位を授けられました。

いまは中尊が一体だけで座っていますが、台座には脇侍を立てたとみられる跡があり、もとは三尊だったと考えられています。

顔が黒く、継ぎ目が目立つのは、鎌倉時代の初めの建久7年(1196年)に落雷で伽藍が焼けたためです。大仏も大きく傷み、のちに補修が重ねられました。

どこまでが、1400年前のままなのか

焼けたあとの大仏に、当初の部分がどれだけ残っているのか。これは長く議論されてきました。

古い調査では、当初のままなのは顔の一部と右手の指くらいで、ほかは後の補修だとされ、それが長く通説でした。「飛鳥大仏で古いのは顔だけ」という言い方を聞いたことのある人もいるかもしれません。

2012年、早稲田大学のチームが、持ち運べるX線の装置で銅の成分を測りました。当初とされてきた顔や右手と、後補とされてきた体とで成分に目立った差がないことから、仏身のほとんどが当初のままである可能性が高い、と発表しています。

2016年には、大阪大学などのチームが足場を組んで137か所を測りました。こちらは、顔の当初部分は頬や顎まで広がる可能性がある一方で、体は後補と考えられる、としています。どこまでが当初か、決着はついていません。ただ、残っているのは目のまわりと指先だけ、という古い見立てよりは広い。その点では、どちらの調査も同じ方向を向いています。

1400年前に造られた仏が、造られたその場所に座り続けている。飛鳥寺の本堂で見られるのは、そういう仏です。

飛鳥様式 ― 蘇我氏の好んだかたち

この時代の仏像には、はっきりした型があります。飛鳥様式、あるいは止利様式と呼ばれます。

目は杏の種のような形で、口元にはかすかな笑みが浮かびます。正面から見られることを前提にした、左右がきっちりそろった造りです。衣のすそは、体の両脇から鰭(ひれ)のように張り出します。法隆寺夢殿の救世観音を思い浮かべると分かりやすいでしょう。

もとをたどれば、中国の北魏で生まれた様式が、朝鮮半島を通って届いたものです。それが、飛鳥で寺を建てた蘇我氏の時代の標準になりました。

法隆寺金堂の釈迦三尊像も、鞍作鳥の作です。光背の銘文には、厩戸皇子と妃が病に伏したとき、二人の回復を願って造りはじめたこと、そのかいなく二人が相次いで亡くなったこと、推古31年(623年)に像が完成したことが刻まれています。病の平癒を願う仏として始まり、亡き人の往生を祈る仏として仕上がりました。

645年、型が崩れる

645年、乙巳の変で蘇我本宗家が滅びます。

寺を建て、仏を造らせてきた最大の施主がいなくなりました。それとともに、蘇我氏の時代の型だった飛鳥様式も、急に見られなくなっていきます。

新しい様式の種は、実はその前から届いていました。630年に最初の遣唐使が送られ、唐の新しい仏像のかたちが伝わりはじめています。けれども蘇我氏が健在なあいだ、それが主流になることはありませんでした。

蘇我氏が倒れたあとに、ようやく変化が表に出ます。正面だけでなく、体の厚みやふくらみを感じさせる、より人の姿に近い仏です。中宮寺の菩薩半跏像や、法隆寺から皇室に献納され、いまは東京国立博物館の法隆寺宝物館にある小さな金銅仏の群れに、移り変わりの途中の姿が見られます。

このころ、各地で寺が建ちはじめます。よく似た顔の小さな金銅仏があちこちに残っているのは、地方の寺が、名の知れた仏を手本にして本尊を造ったからではないか、とも考えられています。

663年、海の向こうが閉じる

660年、百済が唐と新羅に滅ぼされます。663年、百済を立て直そうと海を渡った倭の軍は、白村江で大敗しました。

この敗戦のあと、大陸や半島から新しい意匠がまっすぐ届く道は細くなります。手元にあるのは、それまでに入ってきた仏のかたちです。その中から、何を残し、どう変えるか。つくり手が自分たちで選ぶ時代に入りました。

そのころの年がはっきり分かる仏があります。大阪府羽曳野市の野中寺に伝わる、金銅の弥勒菩薩半跏思惟像です。台座に「丙寅年四月」の銘があり、666年にあたります。中宮天皇の病の回復を願い、118人の知識(信仰で結ばれた仲間)が造った、と読めます。中宮天皇がだれを指すのかは説が分かれます。銘は後から刻まれたものだとする説もありましたが、いまは当初からのものとする見方が強くなっています。

土で、顔をつくる

川原寺跡の中金堂跡。基壇の上に大きな礎石が整然と残る
川原寺跡。寺の裏山から、焼けた仏の破片がまとまって出た

この時期に目立ってくるのが、土で造る仏、塑像(そぞう)です。木の芯に縄を巻き、粘土を重ねて形をつくります。銅のように型を作って流し込む必要がなく、顔の表情や衣の柔らかさを、手で直に追い込めます。

明日香村の川原寺の裏山では、1974年に塑像の破片と、型で抜いた焼き物の仏・塼仏(せんぶつ)が大量に見つかりました。寺が火災にあったあと、まとめて埋められたものとみられます。川原寺裏山遺跡と呼ばれ、掘ったのは関西大学の調査隊でした。

海の向こうから届いたかたちを、自分たちの目で「美しい」と思える方向へ寄せていく。その試みに向いていたのが、手で直に形をつくれる土でした。

高いところから見下ろした岡寺の境内。本堂に五色幕がかかり、奥に山並みが続く
岡寺。本堂の如意輪観音は、土で造られた仏としては国内最大とされる

明日香村の岡寺の本尊、如意輪観音坐像も塑像です。奈良時代の作とされ、高さは4.6メートル。土の仏としては国内で最も大きいといわれます。

藤原京の仏 ― 薬師寺の薬師三尊

本薬師寺跡の礎石と石灯籠。百日紅の花が咲き、奥に水田が広がる
本薬師寺跡。藤原京にあった薬師寺の跡に、金堂の礎石が残る

680年、天武天皇は皇后の病の回復を願って薬師寺の建立を発願しました。皇后はのちの持統天皇で、天武の没後に造営を引き継ぎます。寺が建ったのは藤原京の中、いまの橿原市城殿町です。

710年に都が平城京へ移ると、薬師寺も奈良の西ノ京に移りました。藤原京に残ったほうが本薬師寺です。

問題は、いま奈良の薬師寺金堂に座る薬師三尊像が、どちらで造られたのかです。藤原京の本薬師寺で造られ、遷都のときに運ばれてきたとする「移座説」。平城京に寺を移したあとで新たに造ったとする「新造説」。明治のころから続く論争で、いまも決着していません。

運ばれたのか、新しく造られたのか

移座説は、寺の古い記録に本寺から仏を迎えたとあることを主な拠りどころにします。像の銅の成分が7世紀の金銅仏に近いこと、銅の厚みがむらなく均一なことも、裏付けとして挙げられています。

ただ、当時の銅は古い銅器などを溶かして使い直すこともあったので、成分だけで造られた年を決めるのは難しい、という指摘もあります。

新造説の拠りどころは、かたちの新しさです。両脇の日光・月光菩薩は、首と腰と膝をそれぞれ逆向きにひねる、三曲と呼ばれる姿勢で立っています。台座には葡萄の唐草、四神、異国の人の姿が刻まれています。これらは平城京の時代の新しい意匠ではないか、という見方です。

本薬師寺の跡から出た仏の断片と、薬師寺の三尊が似ているかどうか。そこを比べる議論もありますが、似ている、似ていないは見る人の目に左右されやすく、話はなかなか進みません。

年が分かっている仏と並べてみる、という手もあります。山田寺の本尊は685年に開眼したことが記録で分かっていて、その頭部がいまも興福寺に残っています。こうした年の確かな仏と比べることで、前後関係を詰めていけるのではないか、と考える研究者もいます。

百年で、何が変わったか

飛鳥大仏から薬師三尊まで、およそ百年です。流れをまとめるとこうなります。

まず、蘇我氏のもとで、大陸から届いた型をそのまま受け継いだ仏が造られました。蘇我氏が倒れると、遣唐使が持ち帰った唐の新しいかたちが表に出てきます。白村江のあと海の向こうとの行き来が細くなると、手元のかたちの中から、自分たちの目に合うものを選び、育てる時期に入ります。そして都が奈良に移るころには、興福寺の阿修羅像に見られるような、この国ならではの仏の顔ができあがっていきました。

異国の神として届き、一度は捨てられた仏が、百年かけてこの国の人の顔になっていった。飛鳥と藤原京の仏像は、その途中の姿を見せてくれます。

見に行くなら

飛鳥大仏は、飛鳥寺の本堂で拝観できます。造られた場所にいまも座っている、という点で、ほかに代わるもののない仏です。

川原寺跡と山田寺跡、本薬師寺跡は、いまは礎石と基壇だけですが、仏が据えられていた場所に立つことはできます。山田寺の仏頭は奈良市の興福寺、薬師三尊は奈良市の薬師寺にあります。

飛鳥資料館では、飛鳥の寺から出た瓦や仏の断片のほか、山田寺の回廊なども展示されています。村の中で跡を歩き、奈良の町で仏を見る。両方をたどると、百年のあいだの変化が線でつながります。

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