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物部守屋 ― 丁未の乱を、敗れた側から読む

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587年、蘇我馬子の軍に攻められ、物部守屋は河内の本拠で討たれました。仏を捨てた人、として知られる人物です。けれども彼について残る記録は、すべて勝った側が書いたものです。その記録を、守屋の側から読み直します。

敗れた側の名前

587年(用明2年)の秋、物部守屋(もののべのもりや)は、河内の渋河(しぶかわ)にあった自分の家で討たれました。この年の干支が丁未(ひのとひつじ)なので、この戦いはのちに「丁未の乱」と呼ばれます。

守屋といえば、仏教に反対し、仏像を堀江に捨てた人として知られています。その姿は、ほぼすべて『日本書紀』から来ています。

『書紀』ができたのは720年。戦いから130年あまりあとで、編んだのは、勝った側の流れを汲む朝廷です。守屋が自分の言葉を残した記録はありません。それでも『書紀』をよく読むと、守屋が何を言い、何を恐れていたのかが、ところどころに顔を出します。

物部という家

物部氏は、大王(おおきみ)に仕える有力な豪族で、軍事や刑罰、神まつりにかかわる家と考えられています。守屋はその当主で、「大連(おおむらじ)」の地位にありました。大臣(おおおみ)の蘇我馬子と並ぶ、朝廷の最上位です。

『書紀』は守屋を「物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)」とも書きます。弓削は母方の氏の名と考えられています。本拠は河内、いまの大阪府八尾市から東大阪市にかけての一帯でした。

仏をめぐる争いは、親の代から続いていました。552年に百済から仏像が届いたとき、受け入れを願ったのは馬子の父・蘇我稲目、反対したのは守屋の父・物部尾輿(おこし)です。

疫病と、焼かれた仏

585年(敏達14年)、疫病が流行ります。守屋は中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに、これは蘇我氏が他国の神を拝んだせいだと天皇に訴え、許しを得ました。

守屋は寺に出向き、塔を倒して火をつけ、焼け残った仏像を難波の堀江に捨てさせます。馬子が出家させていた3人の尼は法衣を奪われ、海石榴市(つばいち)で鞭を打たれました。

ところが、疫病は収まりません。天皇と守屋自身もかさ(瘡)を病み、死ぬ人が国にあふれた、と『書紀』は書きます。人びとはひそかに「仏像を焼いた罪ではないか」と言い合った、とも。

守屋の側から見れば、国の神を守るためにしたことでした。けれども『書紀』は、その報いのように話を運んでいます。

殯の庭の、二人

同じ年の秋、敏達天皇が亡くなります。亡きがらを納めた殯宮(もがりのみや)で、群臣が順に弔いの言葉を述べました。

大刀を帯びて進み出た馬子を見て、守屋は笑い、「大きな矢を射こまれた雀のようだ」と言いました。小柄な馬子に長い大刀が不釣り合いだった、という意味だと読まれています。

続いて守屋が、手足を震わせながら言葉を述べると、今度は馬子が笑って「鈴をつけたらよい」と返します。『書紀』はこのあと、二人のあいだにひそかな恨みが生まれた、と書いています。

仏をめぐる考えの違いだけではない、人と人との反目が、ここで描かれています。

穴穂部皇子という賭け

丁未の乱にかかわる人びとの系図 欽明天皇の子は、石姫から敏達天皇、堅塩媛から用明天皇と推古天皇、小姉君から穴穂部間人皇女・穴穂部皇子・崇峻天皇。堅塩媛と小姉君は蘇我稲目の娘で、稲目の子が蘇我馬子。馬子の妻は物部尾輿の娘で、物部守屋の妹。守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとした。 蘇我氏と物部氏 欽明天皇 29代 石姫 宣化天皇の娘 堅塩媛 蘇我稲目の娘 小姉君 蘇我稲目の娘 敏達天皇 30代 用明天皇 31代・587年4月 没 推古天皇 33代・敏達の皇后 穴穂部間人皇女 用明の皇后 穴穂部皇子 587年6月 討たれる 崇峻天皇 32代・泊瀬部皇子 押坂彦人大兄皇子 母は広姫・即位せず 竹田皇子 敏達と推古の子 厩戸皇子 聖徳太子 蘇我稲目 堅塩媛・小姉君の父 物部尾輿 蘇我馬子 大臣 女子 守屋の妹 物部守屋 大連・587年7月 討たれる 濃い枠:天皇 緑の枠:守屋が立てようとした皇子 二重線:夫婦
欽明天皇の子どもたちと、蘇我氏・物部氏。穴穂部皇子と崇峻天皇は同じ母から生まれた兄弟

次の天皇には、敏達の弟の用明天皇が立ちました。これに不満だったのが、もう一人の弟、穴穂部皇子(あなほべのみこ)です。

586年、穴穂部皇子は、敏達の皇后だった炊屋姫(かしきやひめ、のちの推古天皇)のいる殯宮に押し入ろうとして、敏達天皇に重く用いられていた三輪逆(みわのさかう)に門を閉ざされます。怒った皇子に命じられ、逆とその子を討ったのが守屋でした。

これを聞いた馬子は「天下が乱れるのも遠くない」と嘆き、守屋は「おまえのような小臣の知るところではない」と答えた、と『書紀』は記します。守屋は、穴穂部皇子に賭けていました。

「群臣が、私を殺そうとしている」

587年4月、用明天皇が病に倒れ、仏法に帰依したいと群臣に諮ります。守屋と勝海は「なぜ国の神に背いて、他国の神を敬うのか」と反対し、馬子は詔に従うべきだと答えました。

穴穂部皇子が僧を連れて宮に入ってくると、守屋はにらみつけて激しく怒った、とあります。そこへ押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)という人がひそかに知らせに来ます。群臣があなたを討とうとしている、帰り道も断とうとしている、と。

守屋は宮を離れ、河内の阿都(あと)の別宅に退いて人を集めました。そして馬子のもとへ使いを送り、こう伝えています。群臣が私を殺そうとしていると聞いた、だから退いたのだ、と。

攻めるためではなく、身を守るために退いた。『書紀』に残る守屋の数少ない言い分です。

味方だった勝海は、皇子たちの像を作って呪ったのち、形勢を見て押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の側に寝返ろうとし、その帰りに迹見赤檮(とみのいちい)に斬られました。用明天皇も、まもなく亡くなります。

担ぐ皇子を失う

守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとしました。狩りに出ると見せかけて事を起こす手はずだった、と『書紀』は書きます。けれども計画は漏れました。

6月、馬子は炊屋姫の命を受けたとして穴穂部皇子を討たせ、翌日には皇子と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も討たせます。守屋は、立てるはずの皇子を失いました。

このあたりから見えてくるのは、仏を拝むかどうかの争いというより、だれを次の天皇にするかの争いです。仏教の対立は、その上に重なっていました。

稲城と、えのきの木

7月、馬子は皇子たちと群臣を集め、守屋を討つ軍を起こします。泊瀬部皇子(はつせべのみこ、のちの崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)らが加わり、別の一軍は志紀郡から渋河の家へ向かいました。

守屋は一族と、自分に仕える者たちを率いて、稲を積み上げた砦「稲城(いなき)」を築いて迎え撃ちます。自らは衣揩(きぬすり)のえのき(朴)の木に登り、上から矢を雨のように射かけました。

その軍は強く、攻め手は三度退いた、と『書紀』は書いています。勝った側の記録が、守屋の強さをこれだけはっきり認めているのは注目してよいところです。

ここで厩戸皇子が白膠木(ぬりで)で四天王の像を刻み、勝たせてくれれば寺塔を建てると誓い、馬子も寺を建てて仏法を広めると誓います。このあと迹見赤檮が木の上の守屋を射落とし、守屋とその子らは討たれました。軍は散り、名前を変えて葦原に隠れた者もいた、とあります。

厩戸皇子の誓いの場面は、のちの太子信仰のなかで育った話ではないか、とも言われています。

主を失った家来と、白い犬

『書紀』は、守屋に仕えた捕鳥部萬(ととりべのよろず)の最期も書き残しています。

萬は難波の屋敷を守っていましたが、主が死んだと聞いて和泉の山中へ逃れ、追っ手に囲まれます。自分は大王の盾として仕えてきた、なぜわけも問わずに追いつめるのか、と叫び、30人あまりを射倒したのち、自ら命を絶ちました。

なきがらは八つに切られ、八つの国にさらすよう命じられます。そのとき萬の飼っていた白い犬が、主の首をくわえて古い塚に置き、そばを離れずに飢えて死んだ。これを聞いた朝廷は哀れみ、萬の一族に、萬と犬を葬ることを許した、と伝わります。

敗れた側の人間について、『書紀』がこれほど情を込めて書いた場面はあまりありません。

守屋のものは、どこへ行ったか

乱のあと、守屋の家の奴(やっこ)の半分と屋敷は、摂津に建てる四天王寺のものとされました。守屋を射た迹見赤檮には、田が与えられています。

『書紀』には、もう一つ気になる一文があります。当時の人は、馬子の妻は守屋の妹で、馬子はその妻のはかりごとを用いて守屋を殺したのだ、と噂した――。敵どうしの二人は、義理の兄弟でもありました。

そして物部氏は、ここで絶えたわけではありません。一族の流れは残り、85年後の壬申の乱(672年)では、物部の人が両方の側にいました。

大海人皇子(のちの天武天皇)の側には、舎人の朴井雄君(えのいのおきみ、物部雄君)がいました。近江の朝廷が人を集めて武器を持たせていると皇子に知らせ、挙兵のきっかけをつくった人です。東国へ向かう皇子に従い、亡くなったときには天武天皇から内大紫位を贈られ、物部の氏上(うじのかみ、一族の長)とされました。

大友皇子の側には、物部連麻呂(もののべのむらじのまろ)がいました。敗れた皇子に最後まで付き従った数人のひとりと『書紀』は記します。それでも麻呂はのちに天武天皇に用いられ、石上(いそのかみ)氏を名乗り、8世紀のはじめには左大臣にまでのぼりました。石上麻呂です。

守屋の代に大連の地位を失った家は、勝った側と負けた側の両方に人を出し、そのどちらもが、のちの朝廷で重んじられたことになります。

守屋は、仏を憎んでいたのか

『書紀』は、仏を受け入れる蘇我と、拒む物部という分かりやすい図式で話を組み立てています。けれども、ここまで見てきたように、争いの中心には皇位の継承と、大臣と大連のどちらが朝廷を動かすかという問題がありました。

守屋の本拠だった八尾市渋川の一帯からは、7世紀の寺の跡(渋川廃寺)が見つかっています。物部氏にゆかりの寺とみる説がある一方、守屋が滅んだあとに建てられたもので、だれが建てたのかははっきりしません。物部氏が一族そろって仏を拒んでいたのか、それとも守屋という一人の大連が、立場のうえでそうふるまったのか。答えは出ていません。

勝った側の寺は、飛鳥に

飛鳥寺の本堂に座す飛鳥大仏。右手を上げた銅造の釈迦如来坐像
馬子の誓いは、飛鳥寺となって果たされた

戦いの翌年の588年、馬子は飛鳥の真神原(まかみのはら)で寺を造りはじめます。百済から僧や寺工、瓦の技術者が招かれ、596年に完成しました。法興寺、のちの飛鳥寺です。日本で最初の本格的な寺院とされます。

飛鳥寺の本堂に座す飛鳥大仏。右手を上げた銅造の釈迦如来坐像SPOT飛鳥寺・蘇我入鹿首塚あすかでら・そがのいるかくびづか日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「飛鳥大仏前」下車すぐスポットのページを見る →

守屋の墓と伝わる塚は、いまも八尾市にあります。戦勝を記念して太子が建てたと伝わる大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)のそばです。

勝った側の寺は飛鳥に建ち、負けた側の墓は河内に残りました。飛鳥寺の大仏の前に立つとき、この寺が、ひとつの家が滅んだあとに建ったことを思い出してみてください。

飛鳥寺から南へ歩けば、馬子の墓とする説が有力な石舞台古墳があります。守屋を討った馬子のほうは、飛鳥に眠っていることになります。

夜間ライトアップされた石舞台古墳と、まわりの満開の桜SPOT石舞台古墳いしぶたいこふん巨石が積み上がった日本最大級の横穴式石室。明日香を象徴する風景。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「石舞台」下車すぐスポットのページを見る →

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