飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/山背大兄王 ― 聖徳太子の子は、なぜ滅ぼされたのか
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643年、聖徳太子の子・山背大兄王は、蘇我入鹿の兵に追われて斑鳩で一族とともに命を絶ちました。母は蘇我馬子の娘。蘇我の血を引く皇子が、なぜ蘇我に滅ぼされたのか。皇位、上宮王家の力、入鹿以外の関与、そして『日本書紀』の描き方から考えます。
643年(皇極2年)11月、斑鳩(いかるが)の寺で、山背大兄王(やましろのおおえのおう)が妃や子、兄弟とともに命を絶ちました。蘇我入鹿が差し向けた兵に追われた末のことです。
山背大兄は、厩戸皇子(聖徳太子)の子です。太子の一族は「上宮王家(じょうぐうおうけ)」と呼ばれますが、この日を境に、その血筋は途絶えました。
聖徳太子の子は、なぜ滅ぼされなければならなかったのか。『日本書紀』の記事をたどったうえで、いくつかの見方を並べてみます。
まず押さえておきたいのは、山背大兄が蘇我氏の外の人ではなかったことです。母は刀自古郎女(とじこのいらつめ)、蘇我馬子の娘でした。山背大兄は馬子の孫で、蝦夷は母の兄、つまり叔父にあたります。
そして、入鹿が次の天皇に推した古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)も、母は馬子の娘・法提郎媛(ほてのいらつめ)です。蘇我の血の濃さでいえば、二人は同じでした。それでも蘇我の本家は、片方を推し、片方を滅ぼしました。
話は15年前にさかのぼります。628年3月、推古天皇は死の床で、二人の皇子を別々に呼びました。敏達天皇の孫の田村皇子(たむらのみこ)と、山背大兄です。
田村皇子には、国を治めるのは重い務めだから、慎んで軽々しく口にしないように、と言いました。山背大兄には、おまえはまだ未熟だから、望むことがあっても騒ぎ立てず、群臣の言葉を待って従うように、と言いました。
どちらとも取れる言葉です。後継ぎを名指ししない遺言が、争いの種になりました。
大臣の蘇我蝦夷は群臣を自分の家に集め、次の天皇を諮りました。意見は割れます。大伴鯨(くじら)らは遺言の趣旨から田村皇子を推し、許勢大麻呂(こせのおおまろ)らは山背大兄を推しました。
山背大兄は使いを送って、遺言は自分を後継ぎと示したものだと、叔父の蝦夷に訴えています。けれども蝦夷は、田村皇子を立てる方向で動きました。
最後まで山背大兄を推したのが、境部摩理勢(さかいべのまりせ)です。馬子の弟で、蝦夷にとっては叔父にあたる、蘇我一族の長老でした。摩理勢は蝦夷に従わず、山背大兄の弟・泊瀬王(はつせのおう)の宮に身を寄せます。ところが泊瀬王は急に亡くなり、摩理勢は蝦夷の兵に攻められて殺されました。
629年、田村皇子が即位します。舒明天皇です。山背大兄を支えた蘇我の長老は、蘇我の本家の手で消されていました。
641年に舒明天皇が亡くなると、翌642年、皇后だった宝皇女(たからのひめみこ)が即位しました。皇極天皇です。山背大兄は、ふたたび位に就きませんでした。
女性の天皇は、次の天皇が決まるまでのつなぎとして立てられたとみる見方があります。だとすれば、皇極天皇の次をだれにするかが、すでに問われていたことになります。このころ、大兄(おおえ)と呼ばれる皇位継承の資格者が三人いました。山背大兄、古人大兄、そして舒明と皇極の子の中大兄です。
642年、蝦夷は自分と入鹿のために、生前から二つの墓を造らせました。「今来(いまき)の双墓(ならびのはか)」です。このとき、上宮王家に属する民まで工事に駆り出しました。
これに怒ったのが、上宮の大娘姫王(おおいらつめのみこ、山背大兄の妃とみられる)です。蘇我臣は国の政をほしいままにし、無礼なことが多い。天に二つの日はなく、国に二人の王はいない。なぜ勝手に上宮の民を使うのか――『書紀』はそう嘆いたと記します。上宮王家と蘇我本家の溝は、もう隠せないところまで来ていました。
この双墓がどこにあたるのかは分かっていません。明日香村の小山田古墳や、橿原市の菖蒲池古墳を候補とする説があります。
SPOT菖蒲池古墳しょうぶいけこふん家形石棺が二つ並ぶ、一辺約30mの方墳。石室は覆屋のなかにある。アクセス:近鉄岡寺駅から徒歩約15分スポットのページを見る →
643年10月、蝦夷はひそかに大臣の紫冠を入鹿に授け、大臣の位になぞらえました。『書紀』は、入鹿が上宮の王たちを退けて古人大兄を天皇に立てようと企んだ、と続けます。
翌月、入鹿は巨勢徳太(こせのとこだ)と土師娑婆(はじのさば)に兵を預け、斑鳩宮を襲わせました。山背大兄の舎人たちが防いで土師娑婆を射殺し、そのすきに山背大兄は寝殿に馬の骨を投げ入れて、焼け跡で死んだと見せかけ、一族を連れて生駒山へ逃れます。
山中で、従っていた三輪文屋(みわのふみや)が進言しました。東国へ行き、上宮の民を集めて兵を起こし、戻って戦えば必ず勝てる、と。
山背大兄の答えを、『書紀』はこう伝えます。そのとおりにすれば勝てるだろう。けれども私は、十年のあいだ民を労役に使うまいと心に決めている。自分一人のために、どうして多くの民を苦しめられようか。民が、あの人のせいで父母を失ったと後の世で言うのは望まない。戦って勝つだけが丈夫(ますらお)ではない。身を捨てて国を固めるのも、また丈夫ではないか――。
山背大兄は斑鳩寺へ戻り、囲んだ兵に「この身は入鹿にくれてやる」と告げて、一族とともに命を絶ちました。そのとき寺の上空に五色の幡と天蓋が現れ、楽の音が響いたが、入鹿が仰ぎ見ると黒い雲に変わった、とも『書紀』は書いています。
知らせを聞いた蝦夷は、入鹿をこう叱ったといいます。ああ、入鹿はなんと愚かで、ひどい悪事をしたものか。おまえの命も危ういぞ。
ここからは考察です。山背大兄が滅ぼされた理由については、いくつかの見方があり、どれか一つで説明しきれるものではありません。
いちばん分かりやすいのは、皇位継承の争いという見方です。入鹿は古人大兄を天皇にしたかった。そのとき、太子の子で、年長で、大兄と呼ばれ、群臣のなかに推す声もあった山背大兄は、いちばんの障害でした。
蘇我の血の濃さが同じなら、何が分かれ目だったのか。古人大兄は天皇(舒明)の子でしたが、山背大兄の父は即位しなかった厩戸皇子です。また、年若い古人大兄は蘇我本家に頼るしかありませんでしたが、山背大兄はすでに一家を構えた大人でした。蘇我本家にとって扱いやすいのは、明らかに古人大兄のほうです。
二つめは、上宮王家そのものが大きな力を持っていた、という見方です。太子以来、斑鳩に宮と寺を構え、各地に自分たちを支える民を抱えていました。三輪文屋が東国で兵を起こせば勝てると言ったのは、東国にもそれだけの民がいたからでしょう。
双墓の件で大娘姫王が「国に二人の王はいない」と言ったのは、裏を返せば、蘇我本家が王のようにふるまっていたということです。けれども蘇我の側から見れば、斑鳩にもう一つの王家があるように見えていたのかもしれません。
『書紀』は、入鹿が独断で兵を出し、父の蝦夷さえそれを叱ったと書きます。けれども、ほかの記録は少し違う姿を伝えています。
藤原氏の伝記『藤氏家伝』は、入鹿が王子たちと共に謀ったと記します。平安時代に成立した『上宮聖徳太子伝補闕記』は、襲った側に軽皇子(かるのみこ、のちの孝徳天皇)らの名を挙げています。襲撃を率いた巨勢徳太も、のちに孝徳天皇のもとで左大臣になりました。
これらが正しければ、上宮王家がいなくなることを望んだのは入鹿だけではなかったことになります。皇位を狙う皇族や、その周りの豪族にとっても、太子の子は邪魔な存在だった。入鹿は、その思惑の先頭に立っただけなのかもしれません。
最後に、記録そのものの性格です。『日本書紀』は、2年後の乙巳の変で入鹿を討った側の流れのなかで編まれました。入鹿が非道な人物として描かれるほど、乙巳の変は正しい行いになります。
民を思って戦わずに死を選ぶ山背大兄の言葉や、寺の上に現れた五色の幡も、そのまま事実とは受け取りにくいところです。太子を聖人としてあがめる信仰が育つなかで、その子の最期も、身を捨てる聖人の姿に整えられていったと考える研究者もいます。そして『書紀』は、のちに天皇となった軽皇子がこの事件に加わっていたかどうかには、何も触れていません。
645年6月、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に斬られ、翌日、蝦夷も甘樫丘の家で自害しました。後ろ盾を失った古人大兄は出家して吉野に入りますが、同じ年のうちに謀反の疑いをかけられて殺されます。
次に即位したのは、軽皇子でした。孝徳天皇です。山背大兄、入鹿、古人大兄。大兄と呼ばれた三人のうち二人と、その間に立った大臣の家が、わずか2年のうちに消えたことになります。最後に残ったのは、中大兄でした。
山背大兄が最期を迎えた斑鳩は、飛鳥から北西へ20キロほど離れた法隆寺のあたりです。一方、事件のもう一方の主役たちの跡は、飛鳥に残っています。入鹿が討たれた飛鳥宮跡、蝦夷と入鹿が家を構えた甘樫丘、そして飛鳥寺の西に立つ入鹿の首塚です。
SPOT飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)あすかきゅうせき複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「岡橋本」下車徒歩約5分スポットのページを見る →
SPOT甘樫丘あまかしのおか飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「甘樫丘」下車すぐスポットのページを見る →
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あすかきゅうせき
複数の宮が重なる、飛鳥の政治の中心地。

あまかしのおか
飛鳥を一望する丘。蘇我氏の邸宅があったと伝わる。

あすかでら・そがのいるかくびづか
日本最古の本格寺院。飛鳥大仏が今も同じ場所に座す。

しょうぶいけこふん
家形石棺が二つ並ぶ、一辺約30mの方墳。石室は覆屋のなかにある。
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