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穴穂部皇子 ― 位を求めすぎた皇子か、消された有力候補か

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殯の庭で「生きている王に仕えよ」と言い放ち、先の天皇の皇后に迫り、最後は蘇我馬子の兵に討たれた。『日本書紀』で評判の悪い穴穂部皇子は、欽明天皇の子で馬子の甥でもある、れっきとした皇位の候補でした。彼はなぜ消されたのか、記録から考えます。

「推古天皇 豊浦宮址」と刻まれた石標
豊浦宮跡

悪役として書かれた皇子

穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、『日本書紀』のなかで、ひときわ評判の悪い皇子です。天皇の位をあからさまに欲しがり、先の天皇の皇后に迫り、家臣を殺させ、最後は蘇我馬子の兵に討たれました。587年(用明2年)6月のことです。

けれども、彼は欽明天皇の子で、蘇我氏の血も引く、れっきとした皇位の候補でした。位を求めすぎた乱暴者だったのか、それとも邪魔になった有力候補だったのか。記録をたどりながら考えます。

蘇我の血を引く、欽明の子

穴穂部皇子の母は小姉君(おあねのきみ)、蘇我稲目の娘です。つまり穴穂部は、蘇我馬子の甥にあたります。同じ母から、のちに聖徳太子を生む穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)と、のちの崇峻天皇・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)が生まれています。

丁未の乱にかかわる人びとの系図 欽明天皇の子は、石姫から敏達天皇、堅塩媛から用明天皇と推古天皇、小姉君から穴穂部間人皇女・穴穂部皇子・崇峻天皇。堅塩媛と小姉君は蘇我稲目の娘で、稲目の子が蘇我馬子。馬子の妻は物部尾輿の娘で、物部守屋の妹。守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとした。 蘇我氏と物部氏 欽明天皇 29代 石姫 宣化天皇の娘 堅塩媛 蘇我稲目の娘 小姉君 蘇我稲目の娘 敏達天皇 30代 用明天皇 31代・587年4月 没 推古天皇 33代・敏達の皇后 穴穂部間人皇女 用明の皇后 穴穂部皇子 587年6月 討たれる 崇峻天皇 32代・592年 殺される 押坂彦人大兄皇子 母は広姫・即位せず 竹田皇子 敏達と推古の子 厩戸皇子 聖徳太子 蘇我稲目 堅塩媛・小姉君の父 物部尾輿 蘇我馬子 大臣 女子 守屋の妹 物部守屋 大連・587年7月 討たれる 濃い枠:天皇 緑の枠:守屋が立てようとした皇子 二重線:夫婦
欽明天皇の子は、母ごとに三つの系統に分かれる。穴穂部皇子は小姉君の子

欽明天皇には、稲目の娘がもう一人嫁いでいました。小姉君の姉にあたる堅塩媛(きたしひめ)で、その子が用明天皇と、敏達天皇の皇后になった炊屋姫(かしきやひめ、のちの推古天皇)です。

同じ稲目の孫どうしでも、堅塩媛の子と小姉君の子という、二つの流れがあったことになります。この違いが、穴穂部の運命を左右していきます。

「穴穂部」という名は、皇子を養い育てた一族の名から来ていると考えられています。『書紀』は、天香子皇子(あまつかこのみこ)、住迹皇子(すみとのみこ)という別の名も伝えています。

殯の庭での、ひとこと

585年8月、敏達天皇が亡くなります。亡きがらを納めた殯宮(もがりのみや)で、穴穂部皇子は憤ってこう言った、と『書紀』は記します。なぜ死んだ王の庭に仕えて、生きている王のもとに仕えないのか。

『書紀』はこれを、天下を取ろうとした言葉として書いています。けれども翌月に即位したのは、異母兄の用明天皇でした。

皇后の殯宮へ

586年5月、穴穂部皇子は、敏達天皇の殯宮にこもっていた炊屋姫のもとへ押し入ろうとします。『書紀』は「炊屋姫を姧(おか)さむとして」と書きます。

これを、先の天皇の皇后と結ばれることで、位に近づこうとしたのだと読む研究者もいます。皇后は天皇家のなかで重い立場にあり、その人を妻に迎えれば、位を継ぐうえで大きな後ろ盾になるからです。

門を固く閉ざして皇子を入れなかったのは、敏達天皇に重く用いられていた三輪逆(みわのさかう)でした。穴穂部は七度呼ばわっても入れてもらえず、逆を無礼だと馬子と物部守屋に訴え、守屋に命じて逆とその子を討たせます。

皇子は自分で出向こうとして、馬子に、王たる者が罪人に近づくべきではないといさめられた、とも記されています。そして『書紀』は、このときから炊屋姫と馬子が、ともに穴穂部皇子を恨むようになった、と書きます。

この一件で、穴穂部は堅塩媛の流れの中心にいた炊屋姫と、叔父の馬子を、同時に敵に回したことになります。

僧を連れて、宮へ

587年4月、用明天皇が病に倒れ、仏法に帰依したいと群臣に諮ります。物部守屋が反対し、馬子が賛成した場面です。

このとき穴穂部皇子は、豊国法師(とよくにのほうし)という僧を連れて宮に入りました。守屋はそれをにらみつけて激しく怒った、と『書紀』は書きます。

気になるのは、穴穂部がやがて、その守屋に担がれる皇子になることです。仏を拒んだとされる守屋が推した皇子が、病の天皇のもとへ僧を連れてきている。仏教をめぐる対立だけでは、この組み合わせは説明できません。争いの芯にあったのは、だれを次の天皇にするか、のほうでした。

高殿から落ちて

用明天皇は4月のうちに亡くなります。5月、守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとし、狩りに出ると見せかけて事を起こす手はずを整えますが、計画は漏れました。

6月7日、馬子は炊屋姫の命を受けたとして、佐伯丹経手(さえきのにふて)らに穴穂部皇子を討たせます。夜半に宮を囲まれた皇子は高殿に上がりましたが、兵に肩を撃たれて下へ落ち、隣の建物に逃げ込んだところを、灯をかざして探した兵に殺されました。

翌日には、穴穂部と親しかった宅部皇子(やかべのみこ)も討たれています。それからひと月後、守屋も河内で滅びました。

弟の崇峻天皇も

587年8月、即位したのは、穴穂部の同母弟の泊瀬部皇子でした。崇峻天皇です。小姉君の流れから、天皇が出たことになります。

けれども592年、崇峻天皇は馬子の差し向けた東漢駒(やまとのあやのこま)に殺されます。そして次に即位したのが、堅塩媛の娘の炊屋姫、推古天皇でした。

小姉君の二人の息子は、どちらも叔父の馬子によって命を落としたことになります。

乱暴者か、消された候補か

ここからは考察です。

当時は、兄から弟へ位が移るのがふつうでした。敏達、用明と欽明天皇の子が続いた以上、穴穂部は次の天皇の有力な候補だったはずです。殯の庭での言葉も、炊屋姫への接近も、位を求める人として筋の通らない行動ではありません。

蘇我の血の濃さでいえば、穴穂部は用明や推古と変わりません。馬子にとっては同じ甥でした。それでも馬子が手を組んだのは、堅塩媛の流れの炊屋姫のほうです。炊屋姫と馬子が結んだとき、その外にいた小姉君の子たちには、居場所が残っていなかったのかもしれません。

その結びつきを示すような出来事が、後にあります。612年、推古天皇は母の堅塩媛を、父の欽明天皇の陵に改めて葬り、盛大な弔いの儀式を行いました。堅塩媛の流れこそが正統だと示すかのような行いです。

朝の欽明天皇陵の濠。水面に雲が映り、奥の山あいには雲海がかかるSPOT欽明天皇陵きんめいてんのうりょう明日香村では数少ない大型の前方後円墳。アクセス:近鉄飛鳥駅から徒歩約10分スポットのページを見る →

そして、穴穂部の姿を伝える『日本書紀』は、推古天皇と聖徳太子の時代を輝かしく描く本でもあります。勝った側の記録のなかで、負けた側の皇子が身勝手な人物に描かれているのは、守屋の場合と同じです。穴穂部が実際にどんな人だったのかは、私たちには分かりません。

藤ノ木古墳に眠るのは

斑鳩の法隆寺のすぐ西にある藤ノ木古墳は、1985年からの発掘で、未盗掘の石棺から金銅の馬具や冠、二人分の人骨が見つかり、大きな話題になりました。6世紀後半の円墳です。

二人とも男性とする見方が有力なことから、同じ587年に相次いで討たれた穴穂部皇子と宅部皇子ではないか、とする説があります。崇峻天皇とする説などもあり、被葬者は決まっていません。

飛鳥で見る

穴穂部皇子の宮がどこにあったのかは分かっていません。いっぽう、彼と争った炊屋姫は、のちに飛鳥の豊浦宮で即位しました。飛鳥時代の始まりとされる宮です。

「推古天皇 豊浦宮址」と刻まれた石標SPOT豊浦宮跡とゆらのみやあと推古天皇が即位した、飛鳥時代のはじまりの宮の跡。アクセス:近鉄橿原神宮前駅から周遊バス「豊浦」下車すぐスポットのページを見る →

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