飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/念誦崛 ― 増賀上人の墓は、両槻宮の跡なのか
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談山神社の西の山中に、坐ったまま葬られたと伝わる僧の墓があります。この一帯を両槻宮の跡とする説があります。それはいつ、どのように生まれた説なのでしょうか。
多武峰は、明日香村の東にそびえる山並みです。頂上の御破裂山(標高約619メートル)の近くには藤原鎌足の墓と伝わる塚があり、鎌足を祀る談山神社は、明治のはじめまで妙楽寺という寺でした。山全体が、寺と社の一体となった信仰の場だったのです。
鎌足の長男の定恵が、摂津に葬られた父の遺骸をこの山へ移し、十三重塔を建てたと伝えられます。寺はやがて大きな勢力となり、比叡山と同じ天台宗に属して、奈良の興福寺とたびたび争いました。明治の神仏分離で寺は廃され、神社だけが残ります。
『日本書紀』は、656年に斉明天皇がこの山の頂に両槻宮を建てたと記します。その場所は分かっていません。候補地のひとつが、談山神社の西にある念誦崛(ねずき)です。
念誦崛に眠るとされるのが、増賀(ぞうが、917〜1003年)です。比叡山で良源に学んだ天台宗の僧で、名声を嫌い、奇行で知られた人でした。963年に多武峰へ移り、亡くなるまでこの山で修行を続けます。法華経を講じ、年に四度の法華三昧の行を重ね、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』などにも逸話が残ります。
1003年、87歳で亡くなる時、増賀は坐禅を組んだまま息を引き取り、その姿のまま葬られたと伝えられます。
墓があるのは、談山神社の西大門の跡から山道を1キロメートルほど上ったところです。増賀が念仏のうちに亡くなった山なので、念誦崛の字が当てられたともいわれます。
ここには明治のはじめまで、多武峰の奥の院と呼ばれた紫蓋寺(しがいじ)があり、堂や鐘楼、僧坊が並んでいました。いまは石垣と石段が残るだけです。150段ほどの石段を上りきった最上段に、石を二段に積んだ直径約4メートルの円い塚があり、これが増賀上人の墓とされています。途中の踊り場には、おびただしい数の墓碑や石仏が並びます。
江戸時代の名所図会には、塚の上に「南無増賀上人」と刻んだ五輪塔が描かれています。いまはその一番下の石(地輪)だけが残り、1602年と1003年の年号が刻まれています。塚は、四角い二重の石の壇の上に円い石積みを二重に重ねたもので、高さは約2メートル。山中の僧の墓としては、ずいぶん手の込んだ造りです。
この念誦崛を、両槻宮の跡とする説があります。
手がかりは名前です。「ねずき」は「根槻」とも書かれ、槻の字を通じて両槻宮と結びつけられてきました。頂上近くの平らな場所、山を巡る石垣と石段も、宮の跡を思わせます。
ただし、地元の観光協会の案内も「推測の域を出ません」と書いています。石垣や石段は、紫蓋寺や、中世にこの尾根に築かれた念誦崛の砦のものと考えるのが自然です。多武峰は中世、興福寺などとたびたび争い、尾根伝いに砦が連なっていました。発掘で7世紀の遺構が出たわけではありません。
そもそも、ここが両槻宮だとすると、田身嶺の「嶺の上」という記事とは少しずれます。念誦崛は多武峰の頂ではなく、西へ下った尾根の上にあるからです。
古代の記録には、両槻宮の場所を念誦崛とするものはありません。この結びつきは、江戸時代以降の地誌や伝承の中で広まったとみる研究者もいます。権威のある書物に一度書かれると、後の書物はそれを引き写し、いつのまにか通説のようになっていく。地名の由来には、よくあることです。
ここには二つの問題が重なっています。7世紀に両槻宮がどこにあったかという問題と、念誦崛に両槻宮の伝承がいつ、なぜ結びついたかという問題です。後者が分かっても、前者の答えにはなりません。二つは分けて考える必要があります。
念誦崛へは、談山神社から西へ山道を上ります。石段の途中には墓碑と石仏が延々と続き、山中とは思えない数です。両槻宮の跡かどうかはともかく、平安時代から千年、この山が祈りの場であり続けたことは、石段を上るだけで分かります。足元は悪く、人の少ない山道です。山歩きの服装で、時間に余裕をもって出かけてください。