飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/「君が袖振る」は、だれへの思いか ― 額田王と蒲生野の歌
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大海人皇子とのあいだに娘をもうけ、のちに天智天皇のもとへ移ったとされる額田王。蒲生野で二人が詠み交わした歌には、まだ大海人を思っていた心が出ているのではないか。そう読む説を紹介します。
額田王(ぬかたのおおきみ)は、飛鳥時代を代表する万葉歌人です。斉明天皇の船出に際して詠んだ「熟田津に」の歌をはじめ、公の場で詠んだ歌が『万葉集』にいくつも残っています。
『日本書紀』の天武天皇の巻には、天皇がはじめ鏡王の娘の額田姫王を娶り、十市皇女(とおちのひめみこ)をもうけたと記されています。若いころの額田王は、大海人皇子、のちの天武天皇の妻でした。
一方、『万葉集』には「額田王、近江天皇を思ひて作る歌」と題された一首があります。近江天皇とは、大津宮に都を移した天智天皇、つまり大海人の兄のことです。
君待つと 我が恋ひ居れば 我が宿の 簾動かし 秋の風吹く
あなたを待って恋しく思っていると、家の簾を動かして秋の風が吹く――。この歌などから、額田王はのちに天智天皇のもとへ移ったと考えられてきました。弟の妻を兄が迎えた、あるいは召し上げた、という三角関係の物語です。ただ、『日本書紀』にそうした記事はなく、はっきりしたことは分かっていません。
天智天皇7年(668年)の5月5日、天皇は近江の蒲生野(がもうの、いまの滋賀県東近江市のあたり)で狩を催しました。薬草や鹿の若角をとる「薬猟(くすりがり)」で、大海人皇子や諸王、重臣たちが従いました。
このときのものとして、『万葉集』巻一に二首の歌が並んでいます。まず額田王の歌。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
紫草の生える野、人の立ち入りを禁じた標野を行きながら、あなたが袖を振っている。野の番人が見とがめはしないでしょうか――。袖を振るのは、相手の心を引き寄せる、恋のしぐさでもありました。
これに大海人皇子が答えます。
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
紫草のように美しいあなたを憎いと思うなら、人妻と知りながら、どうして恋しく思うでしょうか――。
「人妻」とは、いまは兄の天智天皇のもとにいる額田王のことだと読めます。人目をはばかりながら袖を振る大海人と、それをとがめるふりをしながら気にかける額田王。二人のあいだには、別れたあとも思いが残っていたのではないか――。この贈答を、そうした秘めた恋の歌として読む説があります。
額田王の歌は、袖を振る相手を責めているようでいて、その姿から目を離していません。「野守は見ずや」という心配も、見られては困る間柄だからこそ出てくる言葉です。そこに、天智のもとにありながら、なお大海人を思う額田王の心を見る読み方です。
このわずか4年後、天智天皇が亡くなると、大海人は兵を挙げて壬申の乱に勝ち、飛鳥に戻って即位します。のちの歴史を知る目で読むと、蒲生野の二首には、兄弟のあいだの緊張までにじんで見えてきます。
一方で、研究者のあいだでは、この二首は宴の席で詠まれた座興だったとする見方が有力です。
理由の一つは、『万葉集』での分類です。恋の歌は「相聞」にまとめられるのが普通ですが、この二首は、儀礼や行幸などの歌を集めた「雑歌」に入っています。狩のあとの宴で、かつての夫婦が大勢の前でわざと恋の歌を詠み交わし、座を沸かせた――そう考えるのです。このとき額田王は四十歳近く、娘の十市皇女はすでに天智の子の大友皇子に嫁いでいたともいわれます。
ただ、座興であったとしても、その題材に選ばれたのは二人のかつての関係でした。周りの人々がそれを知っていたからこそ、歌が座興になったともいえます。
額田王は、天武天皇の時代を経て、持統天皇の時代まで生きました。晩年、吉野にいた天武の皇子、弓削皇子(ゆげのみこ)と歌を交わしています。
古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 我が思へるごと
昔を恋しがって鳴く鳥はほととぎす。きっと鳴いたのでしょう、わたしが昔を思っているように――。ここで額田王が思う「古(いにしえ)」を、天武天皇の在りし日と重ねる読み方もあります。
蒲生野の二首が秘めた恋だったのか、宴の戯れだったのか。答えは出ていません。けれど、天武の都となった飛鳥を歩きながらこの歌を思い出すと、千三百年前の二人の距離が、少しだけ近く感じられるかもしれません。