飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/近つ飛鳥と遠つ飛鳥 ― 難波から見た、二つの飛鳥

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近つ飛鳥と遠つ飛鳥 ― 難波から見た、二つの飛鳥

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「飛鳥」は奈良の明日香だけではありません。大阪府の羽曳野市や太子町のあたりにも飛鳥があり、古くは「近つ飛鳥」と呼ばれました。対する大和の飛鳥が「遠つ飛鳥」。近い・遠いは、どこから見た言い方なのでしょうか。

刈り取りの終わった田のあいだをまっすぐのびる道。右手は県道、奥に集落と山並みが見える
山田道

もうひとつの飛鳥

大阪府羽曳野市には、いまも「飛鳥」という地名が残っています。二上山の西のふもと、羽曳野市から太子町にかけての一帯は、古くから飛鳥と呼ばれてきました。奈良の飛鳥と区別して、こちらを「近つ飛鳥(ちかつあすか)」、奈良の飛鳥を「遠つ飛鳥(とおつあすか)」といいます。

古代の河内国には安宿(あすかべ)郡という郡があり、羽曳野市飛鳥には飛鳥戸(あすかべ)神社が鎮座しています。百済から渡ってきた人々の一族、飛鳥戸氏が祖先を祀った神社と伝えられます。

古事記が語る名前の由来

二つの飛鳥の名の由来は、『古事記』の履中天皇の段に出てきます。のちに反正天皇となる水歯別命(みずはわけのみこと)が、難波から大和へ向かう途中の話です。

水歯別命は河内のある地でひと晩を過ごし、明日、大和へ上ろうと言いました。そこでその地を「近飛鳥」と名づけます。大和に入ると、今日はここにとどまって禊(みそぎ)をし、明日、石上神宮に参ろうと言い、その地を「遠飛鳥」と名づけた――という筋です。

「明日(あす)」と「飛鳥(あすか)」を掛けた、語呂合わせの地名説話です。もちろん、これで地名が生まれたと考える研究者はいません。ただ、『古事記』がまとめられた8世紀の初めには、すでに二つの飛鳥が並んで知られていたことが分かります。

近い、遠いは難波から

近い・遠いは、難波(いまの大阪市)から見た距離だと考えるのが一般的です。難波の港から東へ進むと、まず河内の飛鳥に着き、二上山の南の峠を越えた先に大和の飛鳥がある。都の側から見れば、遠い方の飛鳥こそが本来の飛鳥でした。

難波は海の玄関口で、大陸からの使者や物資はまずここに着きました。そこから陸路で奥へ入っていった先に都がある。その位置関係が、近い・遠いという呼び名に表れています。

二つの飛鳥を結ぶ道

『日本書紀』は推古天皇21年(613年)、難波から京に至る大道を置いたと記します。この道は、のちの竹内街道(たけのうちかいどう)と横大路にあたると考えられています。難波から河内の平野を東へ進み、近つ飛鳥を通って竹内峠を越え、大和に入って横大路を東へ。その先に、遠つ飛鳥の宮々がありました。

外国からの使者も、この道を通って飛鳥へ向かったと考えられます。竹内街道は、いまは日本遺産「最古の国道」として紹介されています。

王の眠る谷

近つ飛鳥が特別な土地だったことを示すのが、太子町の磯長谷(しながだに)です。敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵とされる古墳と、聖徳太子の墓とされる叡福寺の磯長墓が集まり、「王陵の谷」と呼ばれます。

飛鳥時代の前後の王たちが、峠を越えた近つ飛鳥に葬られています。豊浦宮で即位し、小墾田宮で政を行った推古天皇もそのひとりです。二つの飛鳥は、生きる場所と眠る場所として、ひと続きの土地だったのかもしれません。

近くには6世紀を中心とする古墳が200基を超えて集まる一須賀(いちすか)古墳群があり、その一角に大阪府立近つ飛鳥博物館が建っています。安藤忠雄の設計で、古墳時代から飛鳥時代の河内と大和の関わりを紹介しています。

宮の名に残る二つの飛鳥

二つの飛鳥は、宮の名前にも現れます。『古事記』は、允恭天皇が遠飛鳥宮で、顕宗天皇が近飛鳥宮で天下を治めたと記します。

ただし、顕宗天皇の宮は『日本書紀』では「近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)」と書かれ、河内にあったとする説と、明日香村の八釣(やつり)にあったとする説があります。「近つ飛鳥」がいつも河内を指していたとは限らない、という見方です。

訪ねる

明日香から近つ飛鳥へは、山田道から横大路をたどり、竹内峠を越えていく道すじが古代の大道に近いルートです。車なら1時間ほど。電車なら近鉄南大阪線の上ノ太子駅が、叡福寺や飛鳥戸神社への最寄りです。

飛鳥寺や豊浦宮跡を歩いたあとに近つ飛鳥を訪ねると、推古天皇が政を行った宮と、眠る陵とを一日でたどることができます。難波から来た人々が「遠い飛鳥」と呼んだ距離を、自分の足で確かめてみてください。

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