飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/藤原京は、どこまで広かったのか ― 岸説から「大藤原京」へ
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藤原京の大きさは、いまも確定していません。古道を枠にした長方形から、平城京をしのぐ5.3キロ四方の正方形へ。発掘のたびに広がってきた、復元の歩みをたどります。
「藤原京」は、研究のために付けられた呼び名です。『日本書紀』では「新益京(あらましのみやこ)」と書かれています。どこからどこまでが都だったのかも、書物には残っていません。範囲は、発掘で見つかった道路の跡から推し量るしかないのです。
最初に本格的な復元を示したのは、歴史学者の岸俊男です。1960年代、藤原宮のまわりで道路工事に伴う発掘が進むと、岸は見つかった道路の跡と、奈良盆地に残る古道とを重ね合わせました。
北の端を横大路、東を中ツ道、西を下ツ道、南を山田道とする範囲です。東西約2.1キロメートル、南北約3.2キロメートル。南北に長い長方形でした。
中ツ道・下ツ道は盆地を南北に貫く古代の幹線道路で、横大路と山田道は東西の道です。都は、すでにあった道を枠にして造られた、という考え方です。
岸は、この範囲を南北12条、東西8坊に区切りました。一つの区画は、一辺およそ265メートルになります。のちの平城京で使われる「条」と「坊」の呼び方を、藤原京にも当てはめたのです。
この形は、東西に長い唐の長安とは似ていません。そのため岸は、長安をそのまま手本にしたという従来の見方に疑問を示し、中国の別の時代の都を参考にした可能性を考えました。
ところがその後、岸が描いた範囲の外側からも、京の街路と同じ規格の道路の跡が次々に見つかります。
1996年には、東と西の端に当たる道路が、桜井市と橿原市で相次いで確認されました。東西の端どうしの距離は、約5.3キロメートルありました。
西の端は橿原市の土橋(どばし)遺跡、東の端は桜井市の上之庄(かみのしょう)遺跡です。どちらも、京の街路と同じ向きと規格の道路の側溝が見つかり、そこで道路網が途切れていました。都の端を示す道路だと考えられています。
藤原京は、岸説よりずっと大きかったのです。こうした広い範囲を想定する説は、まとめて「大藤原京説」と呼ばれます。
広い京を造るために、そこにあった古墳も壊されました。『日本書紀』持統天皇7年(693)には、京を造る役所に、工事で掘り出した遺体を収めるよう命じた記事があります。橿原市の五条野丸山古墳では、前方部の角が削られており、藤原京を整えたときに削られた可能性が高いとされています。
いま有力なのは、一辺約5.3キロメートルの正方形を十条十坊に区切り、その中央に藤原宮を置く復元です。面積では、のちの平城京や平安京をしのぐ、古代最大の都になります。
この説は、1990年代に小澤毅氏と中村太一氏がそれぞれ唱えたもので、一つの坊は一辺約530メートル、岸説の区画の4倍の広さです。
この範囲に入れると、大和三山の香具山・畝傍山・耳成山は、すべて京の中に収まります。宮は、三つの山に囲まれた真ん中に置かれたことになります。大官大寺や本薬師寺も、京の中の寺でした。
一方で、街路は思いのほか細いものでした。藤原京の朱雀大路は、幅20メートル余りとされます。平城京の朱雀大路は約74メートルあり、3倍ほどの幅です。広い都に、細い道。藤原京の特徴の一つです。
宮が都の真ん中にあるこの形は、宮を北の端に置いた平城京・平安京と大きく違います。この違いが、藤原京は何を手本にしたのかという議論を呼ぶことになりました。
ただし、十条十坊の正方形も、まだ確定ではありません。丘陵にかかる場所など、街路が確かめられていないところもあります。
藤原京について聞いた講演では、こんな指摘がありました。碁盤の目の都は、区画を外へ足していくことで広げられます。新羅の都・慶州も、王宮の月城のまわりに少しずつ街区を広げ、整った輪郭を持たないまま大きくなったという復元があります。
藤原京も、着工から遷都まで18年かかり、そのあいだに中断と計画の見直しがありました。最後に見つかった範囲が、最初の計画どおりだったとは限りません。完成した形だけを見て設計図を推し量るのは危うい、という指摘です。
岸説の枠になった道は、いまも地図の上でたどれます。山田道は飛鳥資料館の前を通り、磐余を経て桜井へ続きます。中ツ道・下ツ道は、のちの平城京の街路にも引き継がれました。
岸説は範囲としては見直されましたが、古代の幹線道路が都づくりの基準になったという考え方は、いまも生きています。のちの平城京では、下ツ道がそのまま朱雀大路になり、中ツ道は東の端の大路(東四坊大路)になりました。藤原京で使われた道は、北へ延びて次の都の骨組みにもなったのです。
藤原宮跡から、岸が都の南の端と考えた山田道のあたりまでは、歩いて30分ほどです。そのさらに先まで都が続いていたと思うと、5.3キロ四方の広さが実感できます。
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日本初の本格的な都城の中枢。四季の花畑でも知られる。

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飛鳥を東西に貫いた古代の官道。隋の使者を迎え、山田寺へ通じた道。

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「磐余道」と刻まれた標石。井上靖の揮毫による。

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