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藤原京は、儒教の都だったのか ― 宗廟と社稷が見つからない都

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藤原京は、中国の儒教の経典『周礼』に描かれた理想の都を写したもの。いまはそれが有力な説です。けれども、その経典がいちばん大事にした施設が、藤原京には見当たりません。通説と、それに異を唱える見方を並べて読みます。

有力なのは「周礼説」

藤原宮跡いっぱいに広がる秋のコスモス畑。奥に大和三山のひとつ耳成山
藤原宮跡。宮は京のほぼ真ん中に置かれていた

694年に都となった藤原京は、発掘の積み重ねから、一辺約5.3キロメートルの正方形で、その真ん中に藤原宮を置いた形と考えられるようになりました。

この形を説明する有力な説が「周礼(しゅらい)説」です。中国の儒教の経典『周礼』の考工記には、王の都の造り方が書かれています。

一辺九里の正方形で、各辺に門を三つずつ開く。都の中には南北と東西に九本ずつの大路を通す。そして王宮を中央に置く。藤原京の復元図は、この記述によく似ています。

時代の事情も、この説を支えます。663年の白村江の戦いのあと、日本は30年以上、唐へ遣唐使を送っていません。実物の長安を見た人がいない時期に新しい都を造るなら、書物の理想に頼ったのではないか。こうした説明で、周礼説は通説と言われるまでになりました。

ここまちのコラム「本家は、経典どおりに作っていなかった ― 長安から見た藤原京」も、この説に沿って書いています。

経典には、続きがある

ただ、『周礼』の都の記述には続きがあります。「左祖右社、面朝後市」。王宮の左(東)に祖先を祀る宗廟(そうびょう)を、右(西)に土地と穀物の神を祀る社稷(しゃしょく)を置く。宮の前に朝廷を、後ろに市場を置く、という意味です。

中国の王朝にとって、宗廟と社稷は国そのものを表す施設でした。王朝が代わり、都の形が変わっても、この二つは必ず設けられます。北京の紫禁城でも、正門の東に太廟、西に社稷壇がいまも残っています。

ところが藤原京では、宗廟も社稷も見つかっていません。

宗廟では、皇帝みずから祖先に供え物をささげます。社稷では、国の土地と五穀の実りを祈ります。祖先から受け継いだ家と、治めている土地。その二つを祀ることが、王であることの中身でした。

日本は、何を祀ったのか

日本の朝廷にも、国の祭りはありました。ただ、その形は中国と違います。

701年の大宝律令では、神々の祭りを担う神祇官(じんぎかん)が、政治を担う太政官と並ぶ役所として置かれました。春に五穀の実りを祈る祈年祭(としごいのまつり)では、全国の神社に供え物が配られます。皇祖を祀るのは、都の中の宗廟ではなく、遠く離れた伊勢の神宮でした。

周礼説の側からは、日本は都の形だけを経典から借り、祭りは自分たちのやり方で行った、という説明もできます。ただ、そうだとすると「儒教の理想の都を実現した」と言える範囲は、かなり狭くなります。

経典どおりなのは、どこまでか

藤原京について聞いた講演で、日本と中国の都を比べて研究している講演者は、ここに疑問を投げかけていました。

儒教の経典どおりの都と言うなら、いちばん大事な施設がないのはなぜか。正方形で宮が真ん中、という平面の形が似ているだけで、儒教の都と呼んでいいのか、という問いです。

講演者によると、経典の要素を一つずつ照らし合わせると、宮を北の端に置いた唐の長安のほうが、当てはまる要素が多いといいます。たとえば長安の南の城壁は東西約10キロメートルもあるのに、門は三つしかありません。不便を承知で、経典の「旁三門」に合わせたと読めます。

経典どおりかどうかは、全部守るか、まったく守らないかの二つに分けられるものではありません。実際の都づくりでは、譲れない点だけを残し、あとは使い勝手と折り合いをつけます。中国でその「譲れない点」に当たったのが、宗廟と社稷でした。

天が任せる王と、神の子孫の王

講演者は、王のあり方の違いも挙げていました。

儒教の考え方では、天が徳のある者に国を治めることを任せます。皇帝は天の代わりに世界を治める者で、徳を失えば別の家に替わります。都を経典どおりに造ることは、自分がその正しい王であることを示す手段でした。

日本の天皇は、神の子孫として位置づけられています。天から任されるのではなく、血筋そのものが根拠です。

天武・持統天皇の時代は、その考え方を形にしていった時期でした。伊勢神宮の制度や祭りが整えられ、のちの『古事記』『日本書紀』につながる歴史書の編纂が始まり、「天皇」の称号や「日本」の国号もこのころ定まったとされます。

そうした時期に、儒教の王の理念を国の根本に据えたとは考えにくい、というのが講演者の見方です。

取り入れたのは、形ではなく仕組み

では、中国の影響はなかったのか。講演者はそうは言っていません。

王宮の主な建物を瓦葺き・礎石建ちにし、朱色の柱を立てたこと。宮の正殿を大極殿と名付けたこと。役人の位を細かく分け、位によって宅地の広さを決めたこと。どれも、唐や新羅を意識しなければ生まれなかったものです。

取り入れたのは都の形ではなく、王の力を目に見えるようにする仕組みや、大勢の役人を一か所に集めて治める仕組みだった、というのがその結論です。碁盤の目の街区も、経典の図を写したというより、人を住まわせ、土地を割り振るのに都合がよかったから選ばれた、と考えます。

この見方が広く受け入れられているわけではありません。講演者自身も、自分の説は支持が広がっているわけではないと話していました。周礼説はいまも有力な説です。

藤原宮跡で考える

藤原宮跡に立つと、まわりは平らな田畑です。中国の都なら、宮のすぐ東に宗廟が、西に社稷が建っていたはずです。

そこに何も建てなかったことが、この都を造った人たちが何を選び、何を選ばなかったのかを物語っているのかもしれません。

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