飛鳥の明日香の里を(明日香村)/コラム/住む場所が、身分を表した ― 藤原京の宅地の配分と碁盤の目
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691年、天皇は役人たちに都の宅地を配りました。右大臣は4町、位の低い者は家族の人数に応じて。誰がどこに、どれだけの土地をもらうか。碁盤の目の街区は、身分を地面に描く仕組みでもありました。
『日本書紀』持統天皇5年(691)12月に、こんな詔が載っています。
右大臣には宅地4町。直広弐(じきこうに)以上の位の者には2町、直大参(じきだいさん)以下は1町。勤(ごん)の位から無位までは、家族の人数によって、上戸(じょうこ)は1町、中戸は半町、下戸は4分の1町。皇族もこれに準じる。
町は区画の単位で、藤原京では1町がおよそ130メートル四方です。右大臣の4町は、その4つ分になります。このときの右大臣は、多治比嶋(たじひのしま)でした。
遷都の3年前です。宅地を配れるほどに、京の区画ができていたことになります。
直広弐や直大参は、685年に定められた48階の冠位の名前です。皇族の位と臣下の位が分けられ、臣下は正・直・勤・務・追・進の6段階を、さらに細かく分けました。直の位は、おおむねのちの四位・五位に当たり、朝廷の中心にいる人たちです。勤より下は、実務を担う下級の役人になります。
上戸・中戸・下戸は、家族の人数による区分です。大勢の家族を抱えていれば、位が低くても広い土地をもらえました。位に応じた広さを基本にしながら、暮らしの事情も考えていたことが分かります。
1町、約130メートル四方は、約1.7ヘクタールです。東京ドームのグラウンドを含めた建物全体の、およそ3分の1に当たります。右大臣の4町なら、東京ドーム1個半ほどの敷地になります。
いちばん小さい下戸の4分の1町でも、約65メートル四方、4,000平方メートルを超えます。いまの住宅の感覚からすると、ずいぶん広い土地です。屋敷の中には母屋のほかに倉や使用人の住まいが建ち、畑も作られていたと考えられています。
宅地の配分(宅地班給)で大事なのは、役人が好きな場所に住むのではなく、天皇が決めた土地に住むという点です。
土地が広いほど、高い身分を表します。誰をどこに住まわせ、どれだけの土地を与えるか。それを決めれば、朝廷の中の序列と天皇との距離が、そのまま地面の上に描かれます。
都に住まわせる理由は、ほかにもありました。
7世紀の朝廷では、役人の数が増え続けていました。舒明天皇8年(636)には、役人たちの出仕がだらけているので、夜明け(卯の刻の始め)に出仕し、昼前(巳の刻の後)に退出することにしよう、という提案が出ています。毎朝早くに宮へ通うには、近くに住んでもらうのがいちばんです。
もう一つは、豪族を地元から切り離すことです。それぞれの本拠地に住み、自分の土地と人を抱えた豪族は、天皇にとって扱いにくい存在でした。都に住まわせ、宮へ通う役人にすることで、地元の力から引き離していきます。
直線の道で区切られた碁盤の目は、こうした配分に向いています。区画の大きさがそろっているので、「何町」と数で割り当てられます。人が増えれば、外側に区画を足して広げることもできます。
藤原京について聞いた講演では、藤原京の碁盤の目は、中国の特定の都の形を写したというより、人を住まわせ、土地を割り振るのに都合がよかったから選ばれたのではないか、という見方が示されていました。
飛行機もない時代、数キロ四方の都の輪郭を目で見た人はいません。暮らしている人にとって意味があったのは、都の形よりも、自分がどの区画に、どれだけの土地をもらったかのほうだった、という指摘です。
藤原京では、宮は京のほぼ真ん中にありました。宮のまわりには広い空き地があり、大垣と、その内と外の堀で街と隔てられていました。都の中心にありながら、街とは距離を取っていたのです。
その外に、皇族や役人の宅地が位に応じた広さで並んでいました。都そのものが、天皇を頂点とする序列を地面に描いた図だったといえます。
藤原京の発掘でも、宮に近い場所で1町以上を占める大きな屋敷の跡が見つかっています。敷地の中に大きな建物を並べた、位の高い人の住まいとみられます。
都は、住む場所であると同時に、ほかの国や郡とは別に治められる特別な区域でした。
平城京では、都を左京と右京に分け、それぞれに左京職・右京職という役所を置いて、住む人の戸籍や土地、治安を管理しました。この仕組みは、大宝律令ができた701年ごろ、藤原京の時代に整えられたと考えられています。
都に住む人は「京戸(きょうこ)」として、地方の人とは別に戸籍に載りました。どこに誰が住んでいるかを、区画ごとに把握する。碁盤の目は、そのための台帳の役目も果たしていたのです。
この仕組みは平城京へ引き継がれました。平城京では、宮のすぐ近くで4町を占める大きな屋敷が見つかっています。長屋王の邸宅もその一つです。
藤原宮跡のまわりの田畑には、かつて誰かに割り当てられた1町、半町の区画が眠っています。
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